山田方谷における思想と戦略の一貫性 - 岡山旅行記に代えて

概要

方谷が実務家として卓越し、改革を成功裏に終えられた背景には、士民撫育の目的を握り続けられたことが背景にある。なぜなら、明確な目的が戦略に一貫性を付与し、また情報からの示唆の抽出を助けたからである。また、方谷が目的を握り続けられた背景には、方谷が陽明学の要諦を「誠」と見抜いた点にあると考えられる。

1. 目的と仮説

なぜ山田方谷は備中松山藩の改革を成し遂げられたのだろうか。この問いを探究するにあたり、本稿では「山田方谷の思想が戦略に一貫性を与えたからだ」という仮説を設定する。すなわち、本稿では、陽明学者としての山田方谷(思想面)と戦略家としての山田方谷(実践面)が両輪が一体となって改革を成功させたのだと考え、考察を進めていく。

2. 仮説の検討

なぜ思想と戦略の一貫性が必要なのか。それは、戦略には目的が不可欠だからである。戦略とは目的のために手段を束ね統御するものであると考えられる(Clausewitz, 1832)。戦略は常に目的に奉仕するため、目的のない戦略は存在しない。目的が存在してこそ、不確実性を制して確実に、かつ、無駄を排して最も効率的に目的に到達する術としての戦略が活きる。逆にいえば、目的が変われば、戦略の有効性もまた変わることになる。したがって、目的が日々変わってしまう戦略家は、考えうるなかでも最悪の戦略家だと言えるだろう。

私は、方谷が偉業を成せた一番の理由は、方谷の目的が「備中松山藩の民の幸せを最大限幸せにすること(士民撫育)」の一点から人生で一度も変わらなかったことにあると考える。最も象徴的なのが藩主板倉勝静が江戸幕府の老中になったときに、方谷も顧問として共に江戸に赴いたときのエピソードである。勝静は松平定信の子孫であるという意識からあくまで江戸幕府を存続させることに重きを置いていたが、方谷は江戸幕府を沈みかかっている船だと見抜き、勝静に対して松山藩に戻り、民のために政治を行うことを強く勧めた。ここから、方谷が案じていたのは何よりも松山藩の民だったことが伺える。方谷は江戸末期に松山藩を無血開城する際も、松山藩の民の安寧を何よりも考えていた。

方谷は確固たる目的を持っていたため、戦略を構築する時間を長く取ることができた。方谷が元締め役兼吟味役に任じられ、藩政改革に着手したのは、1849年(45歳)のときである。ところが、藩政改革の基本的な戦略を取りまとめたのは、理財論や擬対策をまとめた30歳前後のときだと考えられる。実に改革着手の10年前に戦略の大綱は固まっていたのである。これは、方谷が京都や江戸で遊学しているときも常に松山藩を念頭に置いていたからだと考えられる。

また、方谷は、戦略策定の際、当時の西洋列強や、中国などの歴史に学び、示唆を出して当座の問題に応用することも非常にうまかった。現代でも、戦略コンサルタントはしばしば海外事例や他社事例を分析し、クライアントが抱える課題に対する示唆を抽出して戦略を練り上げる。この場合も目的が存在しなければ示唆は出せない。それゆえ、方谷は早くに目的を定めることで、京都や江戸で最先端の情報に触れたり、歴史を学んで過去の事例を収集したりする際に、「松山藩の課題解決にどう応用できるか」を常に問うことができたに違いない。

また、方谷が確固たる目的を持ち続けたことは藩政改革の実行にも大いに役立ったと考えられる。藩政改革の実行面で鍵を握るのは官僚機構である。目的・戦略を共にした官僚機構がなければ、いくら方谷といえども、意志は細部に至るまで貫徹することはできず、方谷の改革は「口だけ」に終わってしまい、農民からは失望され、武士から恨まれるだけの結果になったかもしれない。方谷は官僚機構の整備を「教育」と「引き抜き」の二軸で行った。教育とは家塾牛麓舎で弟子を育成したことである。家塾で弟子を育成することで、方谷は、目的と戦略を共有し、戦略を心から信じていた官僚を率いることができた。また、方谷は、類まれなる人を観る目と、当時文化の最先端だった江戸で学び、当代一代の塾で塾頭を務めることで築きあげた全国レベルのネットワークをレバレッジして、優秀な人材を松山藩に登用した。教育と引き抜きの両面は、方谷が松山藩の民を救うことを人生の目的とし、コツコツとまき続けてきた種が芽吹いた結果を顕著にあらわしているといえよう。

3. 結語

以上をまとめると、山田方谷は「松前藩における士民撫育」という確固たる目的を持つことで、先進諸国や歴史から抽出した示唆によって筋のよい戦略を立案することができ、また私塾での弟子の育成、及び、全国ネットワークを生かしたヘッドハンティングをフルレバレッジして、類まれなる官僚組織を一から構築し、寸分の狂いもない戦略の実行を成し遂げることができたと考えられる。

しかし、方谷の最も畏怖すべき点は、恐らく、藩政改革のリーダーになることが将来確約されていたわけでもないのに、目的を持ち続けられた点にあるのではないか。確かに、藩から奨学金をもらったり、京都や江戸への遊学を許可される等、期待されていたのは事実である。しかし、方谷が板倉勝静に講義したのは1844年(方谷40歳のとき)であり、改革のわずか5年前である。この時点であれば、藩の政治に関わる可能性を予感したかもしれないが、それでも元農民の方谷を抜擢するのは当時としては異例であり、方谷といえど予見できていたわけではあるまい。したがって、方谷が確固たる目的を持ち続けられた根底は、「誠」や「知行合一」を核とする陽明学を方谷が思想基盤としていたことに求められるだろう。恐らく、陽明学の本質を「誠」と見抜いたことが最大の改革成功要因だったのだろう。

本稿の限界として、方谷が改革を成功させた理由のうち、少なくとも以下2点を今後深めていく必要があると考えられる。第一は、方谷の学習論についてである。戦略の実行は、各分野に特化した弟子がいて方谷補佐したが、戦略立案の核となる部分は方谷が主導しているはずである。確かに、方谷は類稀なる賢人であり、他領域で優れた洞察力を持っていたに違いない。けれども、実務面だけでも、財政・殖産興業・軍事・流通・教育と、方谷が手掛けた領域は多岐にわたる。松山藩は江戸幕府側についていたこともあり、方谷が実務面で見せた手腕について史料は僅かではあるが、方谷がいかに各分野の学習を進めていたのかについて、方谷の教授録などを読見進めながら探究していきたい。

また、方谷の組織運営についても探究が必要であろう。本稿では、方谷が人材を集めた方法については一定の理解が得られた。しかし、集めた人材をどう配置し、ルールの制定も含めて組織づくりをいかに成したかはさらなる検討が必要である。方谷が残した漢詩からは、人間関係のいざこざに方谷が相当苦労したことが伝わってくる。もちろん、既得権益層との軋轢はあっただろうが、官僚機構をほぼ一から創り上げたといっても過言ではないため、組織構築には相当なエネルギーが割かれていただろう。

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