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桜はなぜ美しいのか - 和歌と俳句を辿りながら、散る桜の美しさと、記憶や祈りとの連関を考える -

なぜ私たちは桜をみて美しいと感じるのだろうか。なぜ私たちは花の中でもことさら桜に関心を持つのだろうか。桜に宿る不思議な力は何に支えられているのか。改めて問うとうまく言葉にできないことに気付く。

桜の美しさを感受する精神はもはや無自覚に受け継がれている。水原紫苑さんの書いた『桜は本当に美しいのか』という本は、それを改めて相対化して言葉にするよき伴走者である。水原さんは今なお精力的に活躍する歌人であり、その水原さんが古代から現代まで桜に関連する歌を取り上げて批評している本である。この記事は、この本に触発されつつ(私の力量では全部を紹介するのは無理なので是非手にとってほしい)、桜を美しく感じる感性を私なりに言葉にした試みである。到底うまくいったとは思えないが、ただ桜の美しさを感受するだけではなく、桜を美しさを表現することは楽しいので皆さんも自分なりに桜の美しさを言葉にしてみてはいかがだろうか。

咲く桜と散らされる桜

桜は不思議な花である。私たちは満開の桜が持つ美しさを讃えるが、なぜか同時に散りゆく桜にも美しさを感じる。満開の桜が美しいのであれば、それがそのまま続くことを望むのが自然なはずなのに、なぜか桜が散る姿もまた見たいと思ってしまう。その桜と相対するときの矛盾する感受性が私たちの中で確かに育まれているのはなぜなのか。

驚くべきことに、散る桜へ美しさを感じる感受性は、もともと私たちに備わっているのではなく、創造されたものであるらしい。水原さんによれば『万葉集』には散る桜を美しいと思う感性はなく、満開の桜を散ることは単に残念なことであった。例えば、「あしひきの山の間照らす桜花この春雨に散りゆかむかも」は、桜がこのあと散るだろうことを想像して残念がっている歌であり、そこに散ること自体を讃える発想はない。

時間はくだり、古今集になると散る桜の美しさを歌いあげるようになる。例えば、「春霞なにかくすらむさくら花ちるまをだにも見るべき物を」は散る桜の美しさを隠す春霞へ文句を言う歌である。「のこりなくちるぞめでたきさくら花有りて世中はてのうければ」は、桜は散るからこそ美しいと直接断定している。その背景には、私たちの生きる世が憂きものであることと、桜が散ることが重ねられている。つまり、桜が散るからこそ美しいのは、ただその視覚的な美だけをいうのではなく、比喩的な儚さをも読み込むことによって成立しているのだと考えられる。

ここで着目したいと思うのは、古今集の歌が桜の散り際を表現しようとするとき、なぜか桜そのものではなく、風や雨に焦点をあてることである。「雪とのみふるだにあるをさくら花いかにちれとか花のふくらむ」や「春さめのふるは涙かさくら花ちるををしまぬ人しなければ」の2つからは、桜が散るのは桜の意志ではなく、桜を取り巻く環境によって散らざるを得ないのだ、と受け取った様を伺える。それを逆説的だが直接示すのが「春風は花のあたりをよぎてふけ心づからやうつろふとみむ」であろう。つまり、桜が自ずから散るのではなく、風や雨によって散ることが不可避であるところに、桜が散る美しさをより一層感じるのである。

儚さと同居する美しさに意志は必要ない。そして、その意志のなさは咲く桜の生命力と対照的である。だからこそ、あんなにも咲こうとする桜の意志にも反して、風や雨によって散らされる桜のことを愛おしく思い、その儚さに美しさを感じることができるのだろう。

桜と記憶

散らされる桜に美しさを感じる感性は、桜を時間と結びつける。なぜなら桜の美しさは現在進行系で失われていくからである。それは、今が過去になることを暗示しているといえる。それゆえ、桜は記憶と結びつく。桜は常に私たちを過去へといざなう。

松尾芭蕉は桜を見て「さまざまの事おもひ出す桜かな」と詠んだ。また、芭蕉の別の句、「命二つの中に生たる桜哉」は芭蕉が二十年ぶりに親友に出会ったときの句である。どちらを見ても、桜は記憶の駆動装置になっていることが見て取れる。桜は、私たちの人生や、私たちが生きる社会の有り様とは無関係にただ毎年咲いては散っていく。それゆえ、いやおうがなく、私たちは定期的に桜を見ることになる。この文章を読んでいるあなたも目を閉じれば桜が咲き、桜が散る風景を思い出すはずだ。その風景はきっと何かしらの記憶と結びついているだろう。多くの場合、その記憶は出会いと別れの記憶なのではないかと思う。芭蕉の句は、桜のこの側面をうまく表現する。

桜と記憶の重なりを強める役割を担っているのが、代替不可能性である。西行の桜の歌の中で、私が格別に好きなのは、「吉野山こぞのしをりの道かへてまだ見ぬかたの花を尋ねむ」である。これは、今年の桜を見るときは去年とは道を変えてまだ見ぬ桜をたずねようという意味である。この歌が好きなのは、実在としての桜を詠もうとしているからだ。私たちはしばしばひとつひとつの桜は決して同じではないことを忘れ、桜一般としての美しさを讃えてしまう。西行の感度はそれぞれの桜が持つ代替不可能性に及ぼうとしている。ひたすらにコピーされる染井吉野だけを桜と思いがちな現代では更に桜の代替不可能性に気付くのは難しいが、桜の代替不可能性に気付くや否や、桜の美しさは格別のものとなるのであろう。

実は水原さんは芭蕉の「さまざまの事おもひ出す桜かな」を受け、「小さな花が無数に集まって咲く桜は、あまたの生が投影されるにふさわしい」と読み解いている。すなわち、冒頭に掲げた芭蕉の句は、単に桜が記憶を駆動する装置であることを表現しているだけではない。それぞれの桜が持つ代替不可能性に気づけば、桜が咲いては散ること、それが毎年起こることに感じる切なさや愛おしさが、以前とは全く別のものになることも開示していると考えることができる。これは、私たちが人間一般ではなく、代替不可能な個別の人間として生き、交流するがゆえに、ある人の死が耐えられなくなるのと同じメカニズムなのではないか、と思う。芭蕉は、己が師と仰ぐ西行と、この点での精神を受け継いでいる。

それぞれが代替不可能な桜が咲いては散っていく。私たちは自分たちの人生が桜と同じであることを知っている。自分の人生は代替不可能であるが、他の人と交換可能な歯車のようでもある。それは、一見区別がつかないが、実は代替不可能である桜と同じである。その桜は散ることを予期させながら目の前で満開に咲いている。その姿はもうじき死んでしまう私たちの人生を連想させるだろう。しかし、同時に咲いては散ることの積み重ねが、私たちが歩んできた道を指し示すのである。だからこそ、桜を見ることは記憶を駆動させ、そして、その記憶は感傷を伴う。

もちろん桜を見て記憶が駆動されるだけではない。ふと過去を思い出したとき、自分の人生が映画の予告編のようにイメージとして過ぎ去るとき、桜はまた重要な演出装置になるのである。例えば、新古今和歌集に所収の歌である「はかなくて過ぎにし方をかぞふれば花に物思ふ春ぞへにける」を、水原さんは「王朝和歌のたどり着いた至高の花の一つでろう」と評している。人生を振り返って物語にするとき、桜は外せない要素であるどころか、クライマックスを彩るものにもなりうるのである。

桜と祈り

桜は記憶を駆動する存在でもあるだけではない。桜は、今・ここを未来へ託すための存在でもある。時間の中に生きる私たちは、今・ここの瞬間もいつしか過去になることを知っている。今が過去になった時点を未来と呼ぶことにすれば、その未来から現在を見る視点を取ることができる。水原さんはそのことを「未生の過去」と呼んでいる。それは、まだ過去ではないが、いつか過去になる記憶のことを言うのである。

いくら楽観的に「未来を予想する最良の方法は未来を創ることだ」と嘯いてみても、私たちは未来は不確実であるという事実から逃げられない。それゆえ、未来を望むとき、人は究極的には祈るしかない。ここで祈るとは、自分の力が及ばないことを自覚してなお、あるべき姿を望むことである。すなわち、祈りには諦念と意志という相矛盾するものが同時に含まれている。未生の過去を想像することは、確かにアクチュアリティを持つ今を、不確実性とともにある未来へ企投することで、時間の流れとともにすべてを虚無に明け渡さないための戦い方である。桜はそのことを教えてくれる存在でもある。

藤原定家が詠んだ桜の歌に、「いまもこれすぎてもはるの俤は花見るのちの花の色々」というものがある。定家の前には満開の桜がある。しかし、定家はその後ろに、桜が散ったあともなお残る春のおもかげを幻視し、歌い上げるのである。これは、未来の視点を設定し、そこから見た現在=未来からみての過去を想定することで、美しさを表現する歌である。未生の過去を象徴する歌である。今・ここを生きることが、視点のとり方を変えることで擬似的に過去を生きることに変形されているのである。いま目の前にある桜の美しさは、過去になることによってやっと表現できる。それほどまでに桜は記憶になることが宿命付けられた花である。

俊成挽歌の名歌と評されるのが「又みやむかたののみのの桜がり花の雪散る春の明けぼの」である。ここでは、自分の人生の残り少なさを自覚した上で桜がりの過去を思い出し、それを再び体験することを諦めと共に未来への望みとしている。私たちは皆、美しい過去を持っているが、その過去を再び体験することはできない。しかし、その過去を再び体験する日のことを祈ることはできる。諦念があっても祈ることは自由である。

桜とともにある今や、桜とともにあった過去は、桜の美しさとともに記憶の中で生き続ける。しかし、現在完了形の記憶が、未来完了形の記憶になるかどうかは、私たちの意志次第である。ところが、未来の自分は他者なのだから、その意志すら不確実性を伴っている。確かな美しさを持つ桜は、その不確実性を少しだけ和らげ、「未生の過去」を持つ未来を祈ることに力を貸す花である。高々百回しか桜とともに過ごす春がないのだとしたら、一回一回をどう過ごすかをもう少し考えてもいいのかもしれない。

桜としての桜

ここまで見てきたように、桜はいつしかそのものの美しさだけではなく、散らされる儚さ、それに惹起された記憶や祈りを背負っていた。それでは桜としての桜の美しさは存在するのか。

晩年の芭蕉は、目の前にある桜の美しさを直接歌い上げるようになった。そこには記憶も祈りもない。むしろ、記憶や祈りのない美しさを捉えることに成功していることに芭蕉の凄みをおぼえる。例えば「四方より花吹入れてにほの海」では、琵琶湖を取り巻くように咲く桜、そしてその桜が風に吹かれてひらひらと琵琶湖に舞い落ちる姿を鮮明にイメージできる。なぜかここで散る桜には儚さや寂しさはない。桜は散っているが、時間は止まっているかのような一句である。こうして、記憶や祈りと結び付けられた桜は、ただ美しく咲いて散ることができるようになったのである。

こうした桜としての桜と極限まで相対したのが西行である。「花みればそのいはれとはなけれども心のうちぞ苦しかりける」とは、自分では理由が分からないが、桜を見ると心が苦しくなるという意味である。また、「花にそむ心のいかで残りけむ捨てはててきと思ふわが身に」とは、何もかもを捨てた自分にも花に染まる心が残っていたことに感嘆する歌である。西行は、芭蕉から一歩進み、桜と相対したときに生じた情念を、記憶とも祈りとも違う次元で歌い上げている。もはやここには桜としての桜の美しさすら、直接的には歌い上げられていない。そのことが逆に、代替不可能なその桜の美しさを暗示することに成功しているのである。

まとめ

私たちは、桜と共に時を重ね、桜を見ることで記憶を思い出す。桜は、今が続くわけではないことを思い起こさせ、同時に、私たち一人ひとりが代替不可能であり、かつ取るに足りない存在であることを開示する。だから、桜を見るとき、思わず今を未来に託し、今を記憶し続けようという祈りを生じさせる。今が儚いからこそ、今を生き延びさせようとするのだ。このように桜は「時間の花」であるが、同時に、桜そのものの美しさは、記憶も祈りも超越したものでまたあり得る。その境地にたどり着くのは容易なことではないが、芭蕉がなし得たように可能なものではある。その先には、記憶も祈りも忘れ、桜そのものの美しさすら背景にのくほどの、桜の美しさに触発された心を描写する歌がある。このように桜の美しさは様々な絡まりの上に成り立っており、決して一筋縄には捉えられない。

春夏秋冬のスタート地点、春の訪れを感じさせる桜は、今年もまた、記憶に支えられた生を惹起し、今ここの儚さを私たちに教え、そんな今が未生の過去になることを祈ることの支えとなるのだろう。しかし同時に、目の前の桜がただ美しいことを讃えることも可能であり、その美しさに動かされた己の内面を覗き込むこともまた可能である。

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