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まのいいりょうしのできるまで

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自然から糧を得ながらまのいい暮らしを目指す「まのいいりょうし」に至るまでの極私的な記録
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まのいいりょうしのできるまで #6

前回からの続き。。。 まのいいりょうしのできるまで #5|風博士 (note.com) 「マイホームツアー、そして定住」 マイホームツアーは五ヶ月間で50箇所を巡る旅となった。北は北海道から、南は鹿児島・沖縄まで。先の「風博士の風まかせツアー」で出会った友人や旧友たちに妻を紹介しつつ、自分たちの住む場所を探す。こんなに贅沢な新婚旅行はないだろう。僕自身、今までの一人旅とは違い、パートーナーとの自宅(車だが)での旅は、本当に楽しく、美しい日々であった。 思い出は深く、い

まのいいりょうしのできるまで #5

前回からの続き… 「マイホームツアー」に出る直前、妻が妊娠していることがわかった。このうえもない喜びだったが、同時にツアーに出られるのかという不安が鎌首をもたげた。妊婦生活のほとんどを、車内で過ごすことになるからだ。加えて、僕は免許を持っていなかったので、運転は妻がすることになっていた。 ある夜、僕は、ツアーを諦めよう、と言った。しかし妻は絶対に嫌だと首を横に振った。何があってもツアーには行く、という。ならば、産婦人科の担当医の先生に相談してみよう。我々夫婦はその先生のこ

まのいいりょうしのできるまで #4

前回のつづき… 結局、体育館には三日間ほどいた。当時三歳だった双子の姪と、一歳の甥を抱えての避難生活で、日々の水と食糧を確保することで精一杯であり、東北の被害のことをほとんど知らなかった。 いつまでも体育館にいるわけにもいかない。妹家族は東京の親類の家に身を寄せて、僕はひとり浦安の実家のマンションに戻った。僕の育ったマンションは地震被害と液状化で、様変わりしていた。ゆるやかで広い中庭の所々に亀裂が走り、いたる所から泥が吹き出していた。地震の後の晴天で泥は乾き、それが風に飛

まのいいりょうしのできるまで #3

前回からのつづき… 良い出会いがあり結婚したとはいえ、僕たちには住む家も、宿る場所もなかった。そこで彼女と相談を重ね、籍を入れた後は、縁のあった長野で仮ぐらしをしながら新作を作り、その音源をもって新婚旅行を兼ねて二人で全国ツアーに出ることにしよう、と決めていた。 まだ記憶に新しい。2011年3月11日、その日僕は、単身京都から実家のある浦安に向かっていた。籍を入れたとはいえ、まだ彼女と一緒には暮らしていなかった。無事に入籍したことの報告も兼ねて一旦ひとりで実家に戻り、仮の

まのいいりょうしのできるまで #1.1

「まのいいりょうしのできるまで #1」のスピンオフ… 僕は生来よく考える質で、いつだって悩める少年であったのだが、悩みに悩んで悩みすぎた挙げ句、大学生になる頃には「なるようになるし、ならないようにはならないので、結局なんとかなるだろう」という前向きとも諦念とも取れる境地に達していた。 だから、進路に関しても具体策をとることもなく、流れに身を任せていたのだが、そんなある日、恩師から「お前は粗布に荒縄で学校に来い」と言われたのを真に受けて、大学院に進んで哲学の道を歩むことにし

まのいいりょうしのできるまで #2

のちに「風博士の風まかせツアー」と銘打つことになる音楽の旅は、きっちり三年間やった。なぜ三年間だったかというと、両親に、会社をやめてこれこれこういうことをしたいんだ、と伝えたら、父は「ふーん。まあ、いいんじゃない?」といい、母は「お父さんがそういうなら反対はしません。ただ期間は決めてね」というので、とりあえずは三週間くらいかなと思い、「えーっと、うーんと、じゃあ、さん・・・」と言いかけたら、母が僕の言を遮り、「そう、三年ね。まあそのくらいかもね」と言い出したからだった。僕は内

まのいいりょうしのできるまで #1

2008年3月2日、32歳の春、持ち物も住む家も捨てて、ギターと三日分の着替えとわずかな所持金だけ持って、僕は音楽の旅に出た。音楽で日銭を得ながら旅をする。続けられなくなったら、その時点で旅も音楽も、すっぱりやめるつもりだった。春とはいえまだ肌寒い日だったが、心は晴れやかでウキウキだった。 ・ そこからさかのぼること十数年、立命館大学の学生だった僕は、学友たちと京都でIT関連の開発会社を立ち上げた。集まったメンバーは全員文系で、「理系にはない発想でのアプリケーション開発」