まのいいりょうしのできるまで #3

前回からのつづき…

良い出会いがあり結婚したとはいえ、僕たちには住む家も、宿る場所もなかった。そこで彼女と相談を重ね、籍を入れた後は、縁のあった長野で仮ぐらしをしながら新作を作り、その音源をもって新婚旅行を兼ねて二人で全国ツアーに出ることにしよう、と決めていた。

まだ記憶に新しい。2011年3月11日、その日僕は、単身京都から実家のある浦安に向かっていた。籍を入れたとはいえ、まだ彼女と一緒には暮らしていなかった。無事に入籍したことの報告も兼ねて一旦ひとりで実家に戻り、仮の住まいとなる長野の庵が段取れたら、彼女を故郷の鳥取から長野に呼び寄せる算段であった。

昼行バスで京都から東京へと向かっている車内で、東北地方で大きな地震が起きたようだと車内アナウンスがあった。どうやら、関東でも大きく揺れたらしい。渋滞で悪名高い、海老名ジャンクションに入る前あたりでのことだった。アナウンスは続けて、首都高は通行止めになったので下道を行くが、バスは何時になろうとも必ず東京駅には行く、と。途中下車も可能とのことだったが、僕はとにかく東京駅までバスに乗ることにした。目的地の浦安までは東京駅から電車で20分足らずである。

バスの車窓からのぞく都内は、交通網が完全に麻痺していて、家路を急ぐひとたちでごった返していた。歩道も車道もなく、見渡す限り、とにかく人で埋め尽くされていた。当然バスが滑らかに動くはずもなく、16時に東京駅着予定だったバスが東京駅についたのは、23時を過ぎた頃だった。

JRは全線運休で、かろうじて地下鉄東西線が動いていたが、南砂町までしか行けなかった。南砂町から浦安の実家まで10キロ程度、交通手段もお金もない。これはもう、歩くしかない。深夜、ギターと、三年間の旅の荷物を抱えて。

浦安の実家には妹一家が住んでいた。妹とは連絡がとれていて、妹家族は近くの小学校に避難しているということだった。電気以外のライフラインが止まり、家の中はぐちゃぐちゃ、足の踏み場もなく、なにより余震が怖いとのことだった。

四時間近く歩いただろうか、避難所の小学校についたのは午前三時を過ぎていた。妹一家は体育館に避難しているというので、僕は体育館のドアを開けた。午前三時とはいっても、体育館内の電気はついていた。病院の入院患者たちがベットのまま避難してきていたし、地震の興奮からか、避難してきた人たちもほとんど静かに起きていた。みんなが僕をみた。

午前三時、避難先の体育館で急にドアが開いたので見てみると、白い帽子の男がギターケースを持って立っている。え?なに?慰問?まさか。早過ぎだし、時間が時間だし、一体なんなの?こわっ。

という目線を全方位から浴びながら、そんなときに限って体育館の一番奥に陣取っていた、妹家族の元へ足早に向かった。


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