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まのいいりょうしのできるまで #4

前回のつづき…

結局、体育館には三日間ほどいた。当時三歳だった双子の姪と、一歳の甥を抱えての避難生活で、日々の水と食糧を確保することで精一杯であり、東北の被害のことをほとんど知らなかった。

いつまでも体育館にいるわけにもいかない。妹家族は東京の親類の家に身を寄せて、僕はひとり浦安の実家のマンションに戻った。僕の育ったマンションは地震被害と液状化で、様変わりしていた。ゆるやかで広い中庭の所々に亀裂が走り、いたる所から泥が吹き出していた。地震の後の晴天で泥は乾き、それが風に飛ばされ粉塵となり、街は灰色に濁っていた。

そんな中で、ようやく、東北での惨状を知ることになる。どうしようもない悲しみにくれた。どこにも着地しない感情を持て余して、津波の動画を観ては嗚咽した。流されていく建屋や車を見ては、呆然とした。そして、音楽の意義を問うた。無力感に包まれていた。それは、驚くほど、圧倒的な無力感だった。流される建屋の前に、音楽も僕も、徹底的に無力であった。

それから毎日、マンションの泥さらいに精を出した。そうでもしなければ、到底やっていけなかった。いつギターを手にしたのかは記憶が定かではないが、誰もいない部屋に音楽が響いたのは随分と時間が経ってからのことだったように思う。

そもそも、結婚後は、長野で新作をつくる予定だったのだ。その予定を決行すべし。心を奮い立たせた。震災の爪痕に気を揉みながらも、鳥取から妻を呼び寄せて、長野の友人たちが段取りしてくれた善光寺近くの家で、新生活を始めた(本当に素晴らしい家であった)。

この家で新作を作りながら、車で暮らせるように改装をして、新作ができたら二人で車を家に見立てて、そこで生活しながら日本を縦断するツアーを決行しよう。同時に、三年間の旅で知り会った全国各地の友人たちに、妻を紹介して、今後の生活の場を探そう。そうだ、これは家探しの旅でもある。ワクワクが少しずつ戻ってきた。ツアー名は、「マイホームツアー」だ。

ところが、である。

(写真は借りぐらしの庵にて、手紙をしたためる私)


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