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感想レポ:中動態の世界 意志と責任の考古学

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郡司の『やってくる』を読んだ後このページを見て読むことにした。

2.

読んでる最中は結構面白かったのだがいざ感想を書こうとすると「これそんな面白かったか??」ってなる感じの本。

バンヴェニストとデリダのレスバを國分が実況して「いや~このやり取りはこっちが優勢ですねぇ!!」とかしてる中盤はめちゃめちゃ面白いが紙面の終わりが近付くと「この概念を導入すると新しい見方が獲得できるんだ!自由に近づけるんだ!」みたいな感じで風呂敷をたたもうとするので魅力を感じなかったのが原因だと思われる。

ただやはりこれまでの言語哲学的思想潮流をまとめる段階はかなりわかりやすい。同じ著者が書いた『ドゥルーズの哲学原理』でも感じたのだが國分は哲学の流れを初学者に向けて説明する能力がずば抜けて高いと思う。

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俺が知りたかったのは”中動態を導入した哲学が現行哲学とどう違ってくるのか?”ではなく、”中動態を導入した哲学は現行哲学とどのように整合性を合わせるのか?”の方だった。その点で、本書の議論では後者は殆ど扱われていなかったことに関しては端的に不満だ。

本質を不動不変の形態として捉える伝統的な哲学の考え方に従うならば、農耕馬だろうと競走馬だろうと、馬は馬であり、牛とは何の関係もない。だが、スピノザ哲学からは牛も馬もまったく違ったように見えてくるのだ。農耕馬の〈変状する能力〉は競走馬のそれとはまったく異なり、むしろ同じ農耕の場で働いている牛のそれに似ているだろう。形態だけを取り上げる本質概念は抽象的である。それに対し、〈変状する能力〉から捉えられたスピノザ的本質概念は具体的である。ここにはまったく新しい分類学の思想がある。

p255

この文章、「おいおい人権思想に反発するのか?」とか言われてもしょうがないと思う(別に著者に対しそのような気持ちを抱いてるという訳では全くない)。農耕馬を奴隷、競走馬を貴族とかに置き換えてみると良い。

簡単な論理操作で突飛な結論が出るので流石になんか注釈あるだろって思って周辺を注意して読んでみたがそれらしき警告はなかった。現行哲学を批判するのはいいがその産物をどこまで攻撃するのかをもうちょい示してほしいという気持ちが強い。

ただこの手の疑問は本書の構成上重要性が低いでは?という気もする。”一次近似的な叩き台としては本書はかなりの完成度で二次的な議論は後の本に譲ればよいという評価がフェアだ”とか言われれば”そうですね”としか返せない。


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