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野暮との闘い

おそらく、多くの人は心のどこかで「粋な人」だと思われたい願望を持っていて、「野暮なやつ」と言われることを避けて生きていると思う。

仕事で分からないことは調べたり、人に聞いたり出来ても、人の感情や感覚・他人の心の機微については気軽に聞くことはできない。

ここでいう野暮は、「野暮ったい」という言葉に表される姿形が洗練されていない意味の無骨のようなものではない。

「野暮なことを聞くなぁ」というような心の動きを理解できない無粋で、融通の効かないことを意味するものである。

・・・

日本には「察する文化」というものがあるらしい。他人の言動からその人の気持ちを推し量り、気遣う文化だ。

私は、己の感情すら十分に理解できていないのに、人の気持ちなんぞ分かるわけないと思っているが、実際の生活では必要以上に気を使っている実感がある。

ただ、その察しは正しいのかは常に疑う必要があるだろう。

友人と遊びに行った時のこと、普段はそんなにはしゃがないのだが、その日はあまりに楽しくて珍しくテンションが上がりっぱなしだった私を見て、友人は「無理しなくていいよ」と言った。

普段と違う私のはしゃぎっぷりを見て、無理に楽しもうとしていると思ったらしい。

本当に楽しいのだと弁解しようと、説明を試みたが、言語化すればするほど嘘くさいらしく、「みなまで言うな」状態で…。

その時、察する方もよりも、察される方が気を使わねばならないのかと思った。「正しく察して」もらうために。

なんだそりゃ。

・・・

機微を捉えることができないのも野暮だが、
正確に言語化するほど更に野暮だな、と。

だからと言って、我慢することが必ずしも正解とは限らないし、沈黙が美徳だと信じているわけでもない。

ただ、言葉にすると途端に薄っぺらくなる気がしてならない。

人と人との関係性を確かめること。
感情に名前を付けること。
会いたいとか、寂しいとか、すべての思いを言葉にすること。

言えば言うほど嘘くさくならないだろうか。
j-popの歌詞みたいにならないだろうか。

しかし、「自分の持っている感情は、もっとずっと特別で高尚なもの」と思うこと自体、勘違いかもしれないけれど。

野暮との闘いはまだまだ続きそうです。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。