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紅の色

私が創作をする際、「いかに無意識のなかに飛び込めるか否か」が重要な鍵を握っている。
特に絵を描く時、モチーフを決める上ではこの視点を意識しているが、これは文学においても同様のことが言えるだろう。

例えば高田敏子の『紅の色』という詩を例に考える。

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やさしさとは
ほうれん草の根元の
あの紅の色のようなものだと
ある詩人がいった

その言葉をきいた日
私はほうれん草の一束を求めて帰り
根元の紅色をていねいに洗った

二月の水は冷たい
冷たい痛さに指をひたしながら
私のやさしさは
ひとりの時間のなかをさまよっていた

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この詩の中で、ほうれん草の中でも更に根の赤い部分にクローズアップし、普段であれば切り落としてしまうただの根っこが、このような着眼点を持つことによりどうしても美しく思われてならない。

つまり、それ自体は美を意識していないものにこそ、美は隠されているのではないだろうか。

カントの『判断力批判』の中では「芸術であると意識していながらも、それが私たちには自然のごとくにみえるときのみ、美しいと名づけられうるのである」と述べられている。芸術であると意識されていないものの中に実は芸術性が隠されており、それを見出す力はいるのではないだろうか。

「美」と考えると広義的で理解し難い部分もあるが、例えば「嘘」で考えるとどうだろうか。

嘘は嘘として意識をしていない時にこそ、嘘として成立する。なるほど、上手な嘘つきは嘘ばかりつく人ではなく、本当のことを言い続けてさりげなく嘘を散りばめられる人。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。