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チラッとキラッと光ればいいんだな

ある方のnoteを読んだ。

その方のnoteを見たのは初めてだったのだけど、自己紹介文や過去の記事を読んで、決して私と似ているわけでもなく、共感できる部分が少ない人だと思った。

もしも学生時代にクラスメイトにいたとしても友達にはなってないだろうし、大変失礼だと言うことは承知の上で正直に言うと、今もお近づきになりたいとは思わない。

昨日読んだ記事も、私と共通している部分は少なかったし、「ここは意見が違う!」とハッキリ思うこともあった。

ただ…

すごく良いものを学んだ気がする。

多くはないけど大切だと思っている小さいカケラのようなものが、この上なく素晴らしいと思った。

共感できない部分が多かった記事の中で、チラッとキラッと光った僅かな光だけで、あっさりと引き込まれてしまった感覚になった。

・・・

判断基準を、共感できるか否かで決めることがある。

それ自体が悪いことではない。

ただ、1から10まで共感できるものを読むより、9割共感できなくても、残りの1割にグッとくる何かを得るものの方が、自分にとって意味のあるものだと思う。

ある人が、共感からは何も生まれないと言っていた。

本当にその通りだ。共感はする方もされる方も、安心感を得ることができるが、自分の成長や気づきを得ることは少ない。

小説や物語を読んでいても、グッとくる作品というのは「私には書けないな」と思うものが多い。

共感には、刺激がないのだ。

・・・

どちらかというと女性に多い気がするが、感情に寄り添いたいという気持ちを常にどこかで持っている人が一定数いる。

何を言っても「分かる分かる」という人が、私の周りにも何人かいるが、その全員が女性である。

その中の1人と好きな小説の話をした時、「感情移入ができるか否か」で好き嫌いを決めていると聞いた。彼女はきっと、刺激よりも安心が欲しいのだ。

私も、刺激よりは安心の方がいい。

でもnoteを読んだり小説やエッセイを読んだりするなかで求めているのは、やっぱり刺激なんだろうなと思った。

一言一句、全てに共感なんかできなくてもいい。

むしろ全く共感できなくても、チラッとキラッと光るものを見つけられたらいい。

私も、泥水の中できらりと輝く砂の粒子があるような、そんな記事や物語が書けたらな、と。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。