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文学作品の価値を決めるもの

私が読む小説は、少し古い作品が多い。

現代の新書は読まないというわけではなく、特にこだわりではないのだが、「タイトルは聞いたことがある」「作者の名前は知っているが作品は読んだことがない」という作品を手に取ることが最近は特に多い。

そして、その多くは既に作者が亡くなっているので、作者の物語も完結している。そして、作者が亡くなった今も書店に並ぶということは、それなりに有名な人か、よほどの名作ということになるので、ならば一度くらいは読んでおこうという気持ちになるのだ。

よって、私の読む本は多くの文学研究者によって作者の生まれや育った環境、人生のどんな時にその作品が書かれたかという背景が明らかになっており、いつでも知ることができる。

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絵画・彫刻などの芸術作品と詩・小説などの文学作品との違いは、その価値が作者や時代背景などの情報によって左右されるか否かである。

芸術作品は、どの時代に誰が創ったのかというだけで値打ちが決まる。誰でもその名を知るような画家や彫刻家の作品であれば、どんな作品であっても目玉が飛び出るほどの高値がつけられる。

かたや、文学作品においてはどうだろう。

名の知れた作家の作品であっても、駄作は駄作として日の目を見ない作品もある。もちろん直筆原稿などの一点物となれば今でも高値で売買されるので話は変わるが、文学にとっての価値は高値で売られることではなく、長く読み続けられることだと思うのだ。

それなのに国語の授業では、作者の人生を説明されたり、作者名・書かれた時代・その他の代表作などがテストに出たりする。

国語の教員免許を持ち、塾講師経験がある私から言わせれば、テストとして成り立つ確実な正解がある物がそれらなだけであり、作品そのものを味わうために必ずしも必要かと問われれば、自信を持ってYESとは言えない。

もちろん、その背景があればこそ味わいが深くなるものもあるだろう。

高村光太郎の『智恵子抄』というのは、実際の智恵子夫人の発病だけでなく出会いから死別、その後の光太郎の心情を反映させた物であり、事実に基づくものなので、知ってと知らずとでは作品の重みが異なる。

しかし、すべての作品がそうだとは言い難い。

そして、作者の物語を抜きにして、ただ作品とだけ向き合うことをしなければ、作者にも作品にも失礼なのではないかと思うのだ。

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昨日から、シュニッツラーの『夢小説』という本を読んでいる。

学生時代の恩師が、この本の話題に話していた記憶があるのだが、今はもうなんの話をしていたのかすら覚えていない。

きっと、作品の背景なんかも話していた気がするのだが、からっきし覚えていないことはラッキーだと思った。

文学作品の価値を、情報だけで判断するのは反対です。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。