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真意の隠れ蓑にご用心

みょうがが好きだ。

夏になり、最近は少しずつ安くなってきたので3つで98円のパックをまとめ買いしている。

小さい頃からみょうがと銀杏が大好きで、たくさん食べたいという願望があったが、その願いは祖母と母によって阻まれた。

みょうがを食べすぎると、物忘れが多くなりアホになる。銀杏は食べすぎると、中毒を起こす。

言い伝えというか、迷信だと思っていたのだが、大人になってから調べてみたら、銀杏に限っては本当だったことを知った。

子どもは7個、大人は40個以上食べると、毒が作用してしまうことがあるという。

これには正直驚いた。

ただ、同じ熱量をもって制御されたみょうがに関しては、これはもう都市伝説のような言い伝えだ。

お釈迦様のお弟子さんの1人に周利槃特(シュリハンドク)という人物がいて、その人はとても物忘れが酷い人だった。自分の名前も忘れるほどで、首から名札を下げ(名荷)た人。没後のお墓に名も知らない植物が生えてきて、その植物に茗荷と名付けたということから、茗荷(みょうが)を食べると物忘れがひどくなる…と。

これを知って、みょうがは好きなだけ食べられるのだと嬉しかった。

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昨日の記事で、そうめんの話をした。

そうめんそのものが大好きなのだが、夏場に食べるそうめんというのは、薬味を美味しく食べるためのものだと思っている。

みょうが・ねぎ・生姜など、単体では多く食べられない薬味たちを、存分にいただくための方法のひとつだ。

少なくとも私にとって、夏場の「そうめん食べたいな」は「みょうが・ねぎをもりもり食べたいな」に他ならない。

つまり、本来の目的は薬味を食べることであり、そうめんは隠れ蓑の役割を果たしているのだ。

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「本来の目的は、奥底に隠れている」ということは多い。

特に言葉には隠れた真意がある。言葉と気持ちは違う場面というのは、そこいら中に溢れているはずだ。

気持ちというのは言葉で表さなければ伝わらないけれど、その言葉ですら本心だと信じてその言葉の意味のまま受け取ってはならない。

「ご飯行きませんか?」というのは会いたいって事で、単にご飯が食べたいだけじゃない。「会いたい」というのは、別に会うことが目的ではなく「好き」を隠しているだけ。

以前見たドラマの中で、そんなことを熱弁している人がいたが、まさにその通りである。

「好き」だの「愛している」だのを平気でポンポン言えるひとは、それによる見返りの期待を後ろに隠してある気がしてならない。

それよりも、「もう少し寄り道して帰ろうよ」と言われる方が、よっぽど信頼できる。

問題はこれが全て分かるほど私は賢くないということだ。無念。

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みなさま。
真意の隠れ蓑にはご用心くださいませ。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。