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謙遜をやめることを誓います

自分に自信はない。

だから自信たっぷりの人を見ると、「ひっくり返っても私はそんな風になれそうにないな」と思ってきた。

その気持ちは今でも変わらない。
これまでも私は謙遜ばかりしてきた。

「大したものじゃないけど」「自信はないけど」「見せるのも恥ずかしいんだけど」という枕詞がなければ、他人に作品を披露することはできなかった。

また、褒められたときも「そんなことないよ」「でも〇〇さんの方が、」と自ら評価を下げることも、もはや習慣になっている。

自信過剰にはなりなくない。
私は謙遜をしているだけ。
だからこれでいい。

そう思ってきたけど、私のその考えはとても危険なことだと気づいてしまった。なぜなら、私の行為は「謙遜」ではないから。

謙遜をというのは本来、根底に自信を持ち合わせていて初めて成立するもの。

本来持ち合わせている能力や価値を認めた上で、驕らず控えめに立ち居振る舞うことのはずだ。

しかし、私の場合はただのスーパーネガティヴで、マイナス評価を持たれることが怖くて、先に布石を打っていただけだ。

それは謙遜でもなんでもなく、ただただ自信がないだけ。

・・・

また、自分を卑下することで「そんなことないよ」と言って欲しかっただけだということにも気づいて嫌気がさした。

高校生の頃、クラスメイトたちと「足が細くなりたい」なんていう思春期らしい会話をしていたときのこと。

私の高校は、芸能活動やモデルをやっている子も比較的多い学校だったため、毎日部活で筋トレをしている私はそんな会話に入ることすら億劫であった。

しかし、モデルをやっている子が「いいなー、引き締まってて。私なんか肉でブヨブヨで太すぎるから羨ましい」と自分の足の皮をつまみながら言われ、首根っこを捕まえて眼科に放り込んでやろうかと思うほどイラッとしたことを覚えている。

そんな過度な謙遜に怒りを覚える体験をしたことは、きっと私だけでなく、誰でも一度くらいはあると思う。

根底の自信の有無は置いておいて、自分を事前に低評価しておくことで安心を得る「そんなことないよ」の欲しがりさんに、私もなっていたのだ。

・・・

おそらく私に必要なのは、現時点での実力を認めて胸を張ることだ。

ネガティヴな私というのは心のどこかで「私はこんなもんじゃない」と自分の今の実力や能力から目を背けているだけだった気がする。

だからこそ、過大評価も過小評価もせず、他人の評価が良かろうと悪かろうと、それを受け入れる姿勢だと思う。

「大したものじゃない」「自信がない」という枕詞を禁止して、褒められても指摘を受けても「嬉しい」「ありがとう」と素直に受け入れよう。

今日から、謙遜をやめることを誓います。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。