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誰でも書けると落ち込むなかれ

文章を書くという行為に、いったい、何の意味があるのか。

こんな大それたことを説くつもりはサラサラない。ただ、毎日文章を書き、毎日文章を書く人を見てふと思った疑問なのである。

人のことは分からないので、自分のことだけで考えてみたい。

もちろん前向きに。

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私は、幼い頃から作文が好きだった。

小学生の頃は、作文のコンクールや公募があるたびに好き好んで応募した。作文だけに限らず、標語や川柳なども、とにかく文章や文字を紡ぐ作業が楽しかった。

みかんとヤクルトをポケットに入れ、庭の木に登り、そこからみる景色から思うことを書いた作文は、区の冊子かなんかに掲載されることになり、母は赤裸々すぎやしないかと、もうちょっとおしゃれにならなかったのかと恥ずかしそうにしながらも笑っていたことをよく覚えている。

いじめ防止の川柳は、クラスの誰よりもたくさんの句を作って提出して、「下手な鉄砲数打ちゃ当たる」作戦が見事成功し、学年代表の作品として応募したことも嬉しかったのを覚えている。肝心の句は覚えていないが。

じゃあ、そういう成功体験があったから書くモチベーションとなったのか。いや、否定こそしないが、必ずしもそれだけではない。

やっぱり書くことは苦じゃなかったし、納得のいく文章を書けた時の喜びはこの上ないものだった。

何があんなに楽しかったのだろう。

これも人それぞれだとは思うが、私は書くことで自分も知らない考えや気づきを得る。

書きたいことを、文字にしているのではない。とりあえず何かしら書いているうちに、まだ見えていない何かに出会う感覚に近い。

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そんなに楽しかったはずなのに、何を今更「文章を書く意味」なんぞ考える必要があるのか。

それは自分の文章がどこかで見たような題材、誰かが書きそうな言い回し、受けのよさそうな言葉だと気づいてしまったからである。

毎回哀しいくらいに、ありふれているなと。

でも、それと同時にそんなことで憂うのもバカバカしいとも思う。

所詮言葉には限りがある。
だから、どこかで見たことがあるというのも無理はないし、似たような文章であってもそっくりコピペでもしなければ同じにはなり得ない。

そもそも名文だと言われているものだって、人が言葉を獲得した過去から今に至るまで、言葉の組み合わせや音の響きの面白さを模索した結果、生まれてきた奇跡だと思う。

そして、古典や文学作品・他の人の文章から得たものを、自分の着色をして形にすることで、文字を紡いできた歴史の中に参加し、自分の存在を明確にすることができるんだろうなと。

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だから、私はまだ見ぬ思考や気づきに出会うために、とりあえず書き続ければいいんだと。ちょっと婚活みたいだけど。

どこかで見た気がする。
誰かが書いている内容かも。

そんなつまらないことは気にせず、文章を書くことで過去と未来に繋がり、人と繋がり、ただ己が存在していることを噛みしめたほうがよっぽど有意義だと思いました。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。