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人を横にして叩かれた命

禅思考の本を読んだ。

1番印象的だったのは、坐禅の「坐」の字の捉え方だった。

「土」の上に「人」が2人。
これは決して、自分以外の誰かと一緒にということではない。自分という人を客観的に見つめるもう1人の自分を持つということらしい。

こういう話は、どうもにわかには信じがたい。

・・・

高校生の頃、私は強豪と言われる高校でソフトボールをしていたのだが、キャッチャーというポジションからヘルニアになってしまった。

ピッチャーの肘・キャッチャーの腰は、もう職業病のようなもので、仕方がないものだった。

監督にそのことを話すと、気功で治してくれる仙人のような人が神奈川の奥地にいるとのこと。

なんとも胡散臭い話であったが、私たちにとって監督というのは逆らったり意見を言えるような相手ではなく、監督の一言で白は黒に、左は右になるのは当たり前。よって、その仙人の元へ二人で行くことになった。

仙人は雄弁に、自分の治療スタイルを語った。

一番印象的だったのは、「命」という字は、「人」を、「一」のように横に寝かせて「叩く」と書きますという講釈をたれた後、私をボコボコに殴り始めた。

痛いと言っている腰を中心に、遠慮なく拳骨を振り下ろし、何故か足まで使い始めて腰の横にかかと落としを始めた。

どういうことか全く理解が出来なかったが、監督が見ている中なので文句も言えない。

そうして30分以上殴られ続け、私の腰回りはあざだらけになった。

その後、仙人の手によって集められた「気」を注入される儀式があり「どうだい、温かくなってきただろう」と問いかけられた。

確かに温かいのは間違いないが、何をどう考えても殴られた打撲熱だとしか考えられないのだが、監督の目もあるのでもちろん「はい、温かいです」と答え、早くこの場をやり過ごしたいという気持ちでいっぱいだった。

「"人"という字は、人と人とが支え合い…」という一時は流行った定説が、なんの根拠もないものであることを知ったのも、ちょうどこのころだ。

・・・

よって高校生以来、字に関する成り立ちや意味をにわかには信じられなくなってしまったのだが、「坐禅」の「坐」については一つの捉え方としては納得できるものだった。

自分で自分に問いかけ、自分の心の声を聴く。

漢字の意味が本当かどうかという問題は別としても、このことが大切であることは間違いない。

今日の私は…
不用意に誰かを傷つけていないだろうか。
間違った生き方や判断をしていないだろうか。
大切な人や物を、大切にできただろうか。
少しでも成長ができただろうか。

そうやって己に問いかけ、一日を振り返る時間をつくっていきたいな、と。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。