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月曜日に思ったこと。

金曜日の私は、自己評価が高い。

問答無用でやり切った気持ちになるし、今週もよく頑張ったと褒めてあげる。

しかし、翌週になって先週の仕事を振り返ると「もう少しやれたのではないか」という気持ちが生まれることも日常茶飯事である。

なぜあんなにも褒めちぎって、なぜ調子に乗ってご褒美がわりのケーキを買ってしまったのだろう、と反省することもしばしばだ。

ただし、反省することはあっても後悔することはない。

疲れているのは事実だし、疲れている時の甘いものは私も元気にしてくれるので、ご褒美のケーキやお菓子の習慣も、とりあえずはやめるつもりもない。

ただ、頑張ったご褒美とするのは、ちょっと違うような気がしていた。

・・・

「疲れ」を「頑張り」と勘違いしている。

何かの記事でこの言葉を見て、うっかり胸をグサッと刺されたような気がした。ダメージもかなり大きい。

図星だったからだ。

確かに、「頑張り」が結果として「疲れ」に繋がることはある。しかし、「疲れ」が必ずしも「頑張り」によるものではない。

金曜日の私は、ただただ「疲れた」だけなのに、「あー、今週もよく頑張った」と都合の良い変換をしていたことに気づいてしまった。

思い返すと、私の「頑張り」の半分以上は、ただ「疲れた」だけのような気もしている。

なんとまぁ、悲しい事実に出会ってしまった。

・・・

学生の頃や独身時代、休みの日に予定も入れず、ただダラダラと過ごす日があった。

驚くべきは、ただダラダラしているだけでも疲れるということだった。

そう考えると「疲れ」という言葉は、とても便利で分かりやすすて、同時に非常に曖昧で厄介なものだと思った。

頑張ってもダラダラしても、生きてるだけで人は疲れる。その速度はことなれど、必ず1日の終わりには「疲れ」がひょこひょことやってくるのだ。

よく口癖のように暇さえあれば「疲れた」という人もいる。そしてそんな風に発せられた「疲れた」という言葉を聞かされているだけで「疲れる」。

仕事疲れ。家事疲れ。子育て疲れ。介護疲れ。
娯楽であるはずのSNS疲れや、今年は自粛疲れなんて言葉も飛び出して、猫も杓子も「疲れ」ていないといけないような風潮もある。「疲れた」というだけで安心しているような人さえいる。

そうやって、この世界には「疲れ」が不必要に蔓延しているのだ。

・・・

「疲れ」を評価してはいけない。
誰にでも平等に「疲れ」はやってくるのだから。

疲れた自分が何をしたか、
疲れにどう向き合ったかを評価するべきだ。


ただ疲れたと言っていないだろうか。
疲れを頑張りだと勘違いしていないだろうか。

自分の首を絞めているような気がするが、そんな問いを持っていようと思います。

月曜日にこんなことを書くんじゃなかったかな。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。