月曜日に思ったこと。
金曜日の私は、自己評価が高い。
問答無用でやり切った気持ちになるし、今週もよく頑張ったと褒めてあげる。
しかし、翌週になって先週の仕事を振り返ると「もう少しやれたのではないか」という気持ちが生まれることも日常茶飯事である。
なぜあんなにも褒めちぎって、なぜ調子に乗ってご褒美がわりのケーキを買ってしまったのだろう、と反省することもしばしばだ。
ただし、反省することはあっても後悔することはない。
疲れているのは事実だし、疲れている時の甘いものは私も元気にしてくれるので、ご褒美のケーキやお菓子の習慣も、とりあえずはやめるつもりもない。
ただ、頑張ったご褒美とするのは、ちょっと違うような気がしていた。
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「疲れ」を「頑張り」と勘違いしている。
何かの記事でこの言葉を見て、うっかり胸をグサッと刺されたような気がした。ダメージもかなり大きい。
図星だったからだ。
確かに、「頑張り」が結果として「疲れ」に繋がることはある。しかし、「疲れ」が必ずしも「頑張り」によるものではない。
金曜日の私は、ただただ「疲れた」だけなのに、「あー、今週もよく頑張った」と都合の良い変換をしていたことに気づいてしまった。
思い返すと、私の「頑張り」の半分以上は、ただ「疲れた」だけのような気もしている。
なんとまぁ、悲しい事実に出会ってしまった。
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学生の頃や独身時代、休みの日に予定も入れず、ただダラダラと過ごす日があった。
驚くべきは、ただダラダラしているだけでも疲れるということだった。
そう考えると「疲れ」という言葉は、とても便利で分かりやすすて、同時に非常に曖昧で厄介なものだと思った。
頑張ってもダラダラしても、生きてるだけで人は疲れる。その速度はことなれど、必ず1日の終わりには「疲れ」がひょこひょことやってくるのだ。
よく口癖のように暇さえあれば「疲れた」という人もいる。そしてそんな風に発せられた「疲れた」という言葉を聞かされているだけで「疲れる」。
仕事疲れ。家事疲れ。子育て疲れ。介護疲れ。
娯楽であるはずのSNS疲れや、今年は自粛疲れなんて言葉も飛び出して、猫も杓子も「疲れ」ていないといけないような風潮もある。「疲れた」というだけで安心しているような人さえいる。
そうやって、この世界には「疲れ」が不必要に蔓延しているのだ。
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「疲れ」を評価してはいけない。
誰にでも平等に「疲れ」はやってくるのだから。
疲れた自分が何をしたか、
疲れにどう向き合ったかを評価するべきだ。
ただ疲れたと言っていないだろうか。
疲れを頑張りだと勘違いしていないだろうか。
自分の首を絞めているような気がするが、そんな問いを持っていようと思います。
月曜日にこんなことを書くんじゃなかったかな。
今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。