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心から出て、心へ至らんことを

昨日、久しぶりに書道をした。

筆を持つのは2〜3ヶ月ぶりだった。
それまでは毎月必ず何かしら書いていたし、多い時は毎週のように書くような生活が4年以上続いていたので、2〜3ヶ月も書道をしないなんてことは久しぶりだった。

久しぶり持つ筆は、少し固くなっていた。
昨日は書くことではなく、筆と墨をなじませることを目的にしようと思っていたので、書く言葉は本当に適当だった。

しかし、それでも十分に楽しかった。

難しいことを考えず、ただ書くということで、気持ちが晴々とする。上手く書こう、格好良く書こうという企みを捨て、今持てる技術で楽しく書くという気楽さが、より心地良かったのかもしれない。

初めのうちは目についた本のタイトルや、ラジオから聴こえる言葉を何枚か書き、ネタが尽きるとこれまで私が書いたnoteのタイトルを書くことにした。

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基本的に、私のnoteのタイトルは最後に考える。とりあえず仮タイトルで書き進めても、エピソードを書いているうちに着地点がずれていき、タイトルで意図したものとはかけ離れていることもあるので、結局変更するということもざらにある。

それは絵でも造形でも同じ。
こんなものが作りたいと考えていても、最終的に違うものになってるのはよくあることなのだ。

私は元々読みが甘いのだと思う。
そして、意図してやった行動も、振り返ると浅はかな振る舞いであったと後悔することもあるし、ウケを狙ってウケを取れるほどの分析力と計算力がない。

だからnoteを書くときも創作活動をする上でも、考えすぎないこと・結論や完成形を決めつけないようにしてきたと思う。

それでいい。

そう思いながら、そろそろ書道も終わりにしようと思ったとき、ふとベートーベンのある言葉が頭に浮かんだ。

「ミサ・ソレムニス」第1章の楽譜の冒頭に記された言葉だったが、うろ覚えだったのでネットで調べてその言葉を書した。最後にはうってつけの言葉だったと思う。

「心より出づ 願わくば再び 心に至らんことを」

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全ての創作活動に共通するものは、心から心へということなのだろう。

それが、文芸であれ、書道であれ、造形であれ、絵画であれ、音楽であれ、写真であれ、その手段や形が違えども、スタートとゴールは心だと思う。

私は頭を使ってもそんなに役に立たないので、使う頭がないという悲しい理由ではあるが、作品作りの出発点は心・感情から生まれるものである。

また、計算高く賢い人であっても、創作活動をする上では頭脳はあくまで利用する技術と同様で、本来の出発点はやはり心から湧き出るものや感情を伴う種から生まれていると信じたい。

きっと、情報や技術で作品の善し悪しを決めるような人に認められるためには、こちらも頭を使って計算しながら上手に情報と技術を利用していけばいい。

しかし、誰かの心へ届けたいのであれば、
心から生み出すことが必要かと。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。