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公平という幻

20年ほど前にやっていた「笑う犬の冒険」というコント番組をご存知だろうか。私が小学校高学年〜中学生くらいまでやっていたTVのお笑い番組で、お笑い好きの私は毎週欠かさず観ていた。

好きなコントは沢山ある。今でも鮮明に思い出せるものばかりだ。ウッチャンナンチャンのウッチャンとネプチューンの堀内健が「パタヤビーチへ、ようこそ」と無邪気にはしゃぎ、観光客からお金を取ろうとするもの。

あるいは、テリーとドリーというボクサーに扮し「毎日毎日同じことの繰り返しで、生きている気がしない」と落ち込むネプチューン原田泰造に、同じく堀内健が2人で少し痛みの伴う実験(ゴムパッチンなど)を行い、痛みを確認することで生きていることを喜ぶもの。

字面にすると面白みを感じないかもしれないが、「箸が転がってもおかしい年頃」の私にとっては、涙が出るほど面白かった。

そのコントの中でもう一つ好きだったものが「公平戦士ザ・センターマン」だ。
"半分イコール平等という先入観だらけの現代社会に真の平等を伝授するというコンセプトで、「人は五分だ五分だと言うけれど、本当は7:3くらいがちょうどいい。ザ・センターマン!!」 というのが決まり文句。

ケーキや強奪したお金などを2人で半分に分けようとすると「お前ら本当にそれで平等に分けたつもりなのかい?」と言いながら、半身裸・もう半分をタイツに身を包んだ原田泰造が出てきて、当時流行っていた武富士のCMソングに合わせて踊る…というもの。

見覚えのある人には分かると思うが、この半分というのは上半身と下半身ではなく、左右の半分。つまり男性がしっかりセンターで分かれた服をTVで着ることは不可能なわけで(女性は尚更無理だが)、これまた文字に起こすとなんのこっちゃという感じなのだが、その頃は面白かったわけで。

しかし、くだらないと思われる笑いの中に、確かにそれは公平じゃないなと感心する説得もあったりして、とても印象に残っている。

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こんなことを思い出したのは、文藝春秋を読んでいたからだ。まさか文藝春秋を読んでいてセンターマンを思い出すことになるとは思いもよらなかったが。

ある記事の中で日本人というのは【公平】が大好きで、全ての水準を公平に推し量ろうとするということが書かれていた。

例えとして挙げられていたのは大学受験。特にセンター試験(またセンターが出てしまった)においては、どんな生徒であれ、また日頃の意欲態度に限らず当日の点数のみが判断基準となり、得点の高い順に合否が確定する。

片や、ケンブリッジ大学では全く異なる。大学並みの学習環境を揃えた最高ランクの私立学校生が200点、勉強する環境としては万全とは言えない公立高校生がとった192点とでは、前者を不合格・後者を合格にすることもあるのだという。

一切の主観を混入させないことが日本における「公平」である一方、主観を入れることでより妥当な評価をすることこそがケンブリッジ大学の「公平」となる。

センター試験に限らず、AOや指定校推薦を除く一般受験でも「公平」は求められ、大学入試にとどまらず就職活動中に出身大学で判断されようものなら訴えられかねない日本。

さて、本当に公平な世の中とは、実現可能なのだろうか。

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男女平等参画社会基本法が制定され、その名が浸透してきた近年の社会では、性別を問わず出世や賃金における格差がないようにとされてきた。

とはいえ、そんなものなくなるわけないと思っているし、別に仕方がないかなとも感じている。

もちろん、男尊女卑に賛同しているわけではないが、少なくとも男女を分けられることで恩恵を受けてきたと思う。学生時代のマラソン大会で、男子は5キロ・女子は3キロということで女に生まれた喜びを幾度も味わってきた。

「女性だから」ということで得をしてきたからこそ、あんまり平等性を訴えるのはやめてほしいな、と個人的には思うのです。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。