好きは抽象的 嫌いは具体的
好きなものを否定する人に出会うことがある。
以前、趣味の話をしていた時のこと。茶道を趣味としている子がいて、どこが楽しいのかを聞いた。
しかし、その子は「いや、全然面白くないよ。子供のころからやらされているから仕方なく。足は痛いし、師範のおばあちゃんは厳しいし…」と、マイナス要素のみを延々話していた。
また、ある子は彼氏の話になり、その彼氏のどこが好きなのかを聞いたら、彼氏の不満を話していた。好きなんだよね?と確認をしても「でも、全然連絡くれないし、カッコいいけどそれだけだし」と。
遠慮や謙遜は、必要なもの。
ただ時として不必要なものだと思う。
私はそういう場面に出会うたび、好きなものは好きだと言いたいと強く思った。
もちろん今でも思っているのだが、1つ問題がある。私は好きなものを言葉で説明するのが苦手だからだ。
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対象は関係ない。
芸術作品であれ、文学作品であれ、趣味であれ、好きな人であれ、私の好きなもののすべての良さを言葉にすることが不得意なのだと感じている。
では、言語化することが不得意なのか…いや、そうではない。むしろ嫌いなことや苦手なことは、意外と端的に言葉にできる気がするから。
私はそれを、性根の悪さだったり、性格がゆがんでいるのではないかと自分を評価していた時もあった。もしかしたら、不本意ながら多少はそういう部分もあるかもしれないけれど。
でも、「好き」「嫌い」に至る過程が違うせいなのかもしれないと今は思っている。
私にとっての「好き」は、「好きだ」思う根拠や具体的な理由はいらない。直感や感覚で感じている「好き」を、少しずつ理由を後付けしていく作業のような気がする。
そして、直感や感覚だけでは「嫌い」を公言することは気が引ける。確固たる理由や原因が見えている時に、初めて胸を張って「嫌いだ」と言える。
だから、「好き」を人に伝えるのが難しいのだろうな、と。
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冒頭で話した好きなものを否定する人というのは、照れ隠しや謙遜しているかもしれないが、もしかしたら嫌いなところを言ったほうが簡単だったからかな、と思った。
全員が全員ではないと思うけど、言葉にしやすい「嫌いなところ」をいう方が、うまく伝えられないかもしれない「好きなところ」を言うより容易いからかもしれない。
世間でもnoteでも、饒舌に話せる話題というのは、どちらかというとネガティヴな内容だったり、何かを批判していることが多いなという実感もある。
嫌いな理由を言うように、好きな理由を言えるようにしたい。
たとえ、それがどんなに抽象的であっても、言語化できるようになりたいと思ったある日の朝でした。
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