夕暮れのシンクロニシティ
休日の夕方に出かけるのが好きだ。
散歩したり回り道をしながらスーパーへ行き、買い物をして帰ってくるのが、予定がない日の定番になっている。
陸橋を上り、夕日の美しさに立ち止まる。
パステルカラーのような淡い藍色とピンクがかった菫色が、薄い雲とマーブルになって、とても美しい空だった。向かいから歩いてくる人が見えた。
写真に撮ろうかと迷った。
日曜の夕方に、アラサーと思しき女性が、陸橋から空の写真を撮っている図は、なんだか少し恥ずかしくて。
しかし、やはりとても綺麗だったこともあるし、最近はこのnoteの見出し画像の素材を集めるという自分を説得できるだけの口実もあるので、写真を撮ることにした。
すると、先ほどから視界に入っていた向かいから歩いてきた人も立ち止り、同じタイミングで、互いに夕陽に向かってスマホをかざしていた。
私はスマホだけで写真を撮り、また歩いた。
しかしその人は、黒いリュックの中からカメラを取り出して、カメラでその夕暮れを捉えようとした。
なんだ、カメラ小僧か。
それなら当たり前のように写真を撮っていてもおかしくないな、と思いながら歩いていると、すれ違いざまに彼が会釈をした。
やはり私が写真に撮っていたことも見られていたんだろう。そして何故会釈なのか。しかし私も、全く誰とも分からないその人に会釈を返してその場を後にした。
もう顔も覚えていないし、会うこともないだろう人と、ただ同じ日同じ時間同じ場所で同じ夕暮れを手に入れたというだけで、会釈を交わすのは少し不思議な体験だったが、気分はいい。
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こういったシンクロニシティ=意味のある偶然というのは、私たち人間が無意識の中で繋がっているかららしい。集合的無意識というのだが、私たちの意識というのは氷山の一角で、実は言動や思考の根拠というのは、多くの無意識の中に秘められていることは有名な話。
しかし、そのような個人の無意識のさらに奥に、この集合的無意識は存在する。そしてその集合的無意識いうもので、人と人とは繋がっているというのだ。
そしてさらにその奥には、悟りとかスピリチュアル的なものになるので、もはやファンタジーにも思えるが。
集合的無意識は、この世に生きるすべての人が共通で持ち合わせているらしい。「誰にも教わらずとも、誰もが共通して持っている記憶や常識」なのだと。
だから、国や時代を超えて、似たような物語が存在するのも、この集合的無意識が要因であるとのこと。
知らない人のnoteを読んでいて「あ、その話私もしようと思ってたのに」と思うのは、パクられたわけではなく、集合的無意識で繋がっているということだ。
夕暮れに立ち止まったのは、向かいから歩いてきたカメラ小僧と私が無意識下の中で繋がっているからこそ起こったシンクロニシティだったのだ。
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根拠はないけど「なんとなく」が、意外と的中することも、小さくて弱いものを見ると守りたくなることも、夕暮れを美しく感じることも。
繋がっている。
無意識のさらにその奥で。
そんなことを知ったら「あの人は今、何をしているだろう」とふと思った時に、集合的無意識の力に期待してしまうじゃないか。
今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。