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いちごに練乳はかけるべきか

月1のパフェ修行へ行った。
かれこれ、このパフェ修行を始めて1年以上になるが、初めて王道のいちごパフェを食べた。

今回は一階は街の果物屋、その二階に店を構えるフルーツパーラーへ行った。やはり果物のクオリティが素晴らしい。

"あまおう"と"とちおとめ"がふんだんに使われるだけでなく、濃くて爽やかないちごのシャーベットに感動しながら、ミルクアイスと一緒に食べるとまるでいちごミルクのように口の中に広がった。

すると子どもの頃、いちごに練乳をたんまりかけて食べていたことを思い出した。もうそれは当たり前のように。なぜ、大人は練乳をかけないのか不思議だった。

しかし、いちご本来の味や、1パックの値段を知ってしまってからは、練乳をかけるのを躊躇うようになった。

そして、たんまり練乳をかけていたことを思い出して思う。なんともったいないことをしていたのだろう、と。

そう思うと同時に、この心境の変化の原因は味覚の変化だけではなく、知識と経験の体得によるものであることは間違いないと思った。

そうやって見える世界が変わっていくのだ。

・・・

例えば、私のベッドには枕がない。
正確には、枕として売られたものがベッドの上には乗ってないのだ。

代わりに、硬さの違う4つのクッションが転がっていて、毎日違うクッションを枕として使うこともあれば、抱きついて眠る時もある。

人によって、これらはどれも枕だと思う人もいれば、全て枕ではないと思う人がいるだろう。
あるいは、共に住んでいる猫にとってはただの茶色い塊である。

それは、それぞれに概念を持っているからだ。

人には、自分だけの辞書や取扱説明書みたいなものが頭の中にあり、様々な現象や物体に対して「こうするべき」「こうあるべき」「こう使うべき」という概念の中で生きている。

でも、それは自分の世界の話で、他人の世界では通用しない。

いちごには練乳をかけるべき、と思っている人も、いちごに練乳をかけるなんて、と思っている人もいる。なぜなら、人はそれぞれ知識量も価値も経験も異なるからである。

・・・

概念というのは結局後付けで、いちごと名のある赤い物体があるだけである。そんなものに対して、こうあるべきと思うほうが間違っている。

このことをいろんなことに置き換えると、ある程度の悩みのほとんどを解決できるのではないだろうか。

この世の全ては人も物も私も猫もただの物体に過ぎない。…この先も語りたい気持ちは山々だが、少し仏教的な世界に入りそうなので、やめておこう。

とりあえず、今の私はいちごに練乳をかけたい。

いちごの値段を知っている。しかし練乳をかけたいちごの美味しさも分かっているからこそ、練乳をかける贅沢に酔いしれたいと思う。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。