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書けない私を分析してみた

毎日のnoteに若干の苦労を感じ始めた今日この頃。

せっかくなので、この苦しみの原因を考えてみることにした。成長のチャンスにしちゃろうかと。

「書けない」とばかり言ってるな、と思われてしまいそうだが、それも今日までなのでお付き合いいただきたい。

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私のnoteは基本、エピソードベースである。

社会問題に刃を向けるわけでもなく、強い主義主張があるわけでもない。本当に誰にでもあるような「ちょっとしたこと」が出発点だ。

そして、実際に私の身の回りで起こった「ちょっとしたこと」から、いかに思考を巡らせ、飛ばし、抽象的な概念と握手をさせるかが目標であり、課題でもある。

かの巨匠のお言葉を借りれば、
「半径3メートルの世界」のnote。

では、書けない理由は「エピソードがない」ということだろうか、と思ったがすぐにその考えを改めた。なぜならば、私だって毎日全く同じ生活をしているわけではないし、毎日いくつもの「ちょっとしたこと」で溢れている。

では、なぜそのエピソードをすくい上げることができないのか。

その理由は簡単なこと。
「ちょっとしたこと」に気づけていないか、そこから思考を巡らせることができないかの2パターンである。

そして、どちらのパターンも原因は「考えが浅い」というだけで。

・・・

「考えが浅い」というのは、思い当たる節がある。たしかに、没頭する時間が足りなかったと。

私のnoteの場合、ほぼ独白のようなもので、エビデンスも根拠も必要がない、ただの独り言のようなものなのに、何をそんなに考える必要があるのか…と思った時、もう1つの原因として思ったことは「誰のために書いているか」ということ。

あくまでも私の場合、いつのまにか人の目を気にして、読んでくれた人に良い記事だと思われたくて、「読んでくれる人のため」になることがある。

そうなると、途端に書けなくなるのだ。

何者でもない私が、人のために、人のウケを気にして書くなんぞ100万年早いわけで、自分自身をも満足にすることができないのに、なんともおこがましいことである。

そのための「リハビリ」であったはずなのに。

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久々の夜の更新となってしまったが、おかげで急に書きたいことが浮かんできた。先週を振り返り、見過ごしていた「ちょっとしたこと」も思い出すことが出来た。

そして、改めて私の固定記事にしている「誰にでもわかる。自分にしか書けない」を胸に刻み、毎日更新を続けていくつもり。

不思議と書けそうな気がしてきたぞ。

今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。