恥じらいは必要です
かつて塾で担当をしていた生徒から連絡がきた。
管弦楽団のサークルに入っている彼女は、定期的に演奏会の招待をしてくれていた。会場が自宅近くの時には実際に聴きに行って、彼女の成長をもはや親のような気持ちで見守っていた。
しかし、高校三年生だった彼女ももう大学三年生。もちろん話は就職活動の相談だった。
極度の恥ずかしがり屋で緊張症である彼女は説明会に行くだけでも、涙が出るそうで。ましてや面接になど行けるのか、というくらい緊張や不安で仕方がないらしい。
涙が出るというのが事実なのか比喩なのかは分からないが、塾の生徒だった時も、私以外の誰とも話をしないような子だった。
しかし、内気でおとなしいというわけではない。
話始めれば止まらないし、声も大きい。愚痴や不満を口にはするが、言葉とは裏腹に一生懸命に頑張ることができる。極度に自信がないけれど、それを克服する努力もしている。
基本的には甘ったれだが、可愛い生徒の1人だった。
場に慣れてしまえば案外上手く行くと思っている。実際に演奏会でヴィオラを弾く彼女は堂々としていた。
だから、彼女の興味や希望の有無にかかわらず、人が多そうな人気企業や外資系企業に片っ端から説明会の予約やエントリーをさせ、強制的に行かせることにした。
案の定、鬼だと言われた。
だが、やはり彼女は文句を言いながら、毎日のように「今日はどこへ行ってきた」とか「エントリーシート出すから見てほしい」と連絡をしてくる。
実に可愛い元生徒である。
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かくいう私も緊張しいで恥ずかしがり屋なタイプだと思う。しかし、恥ずかしさというのは、「逃げる理由」や「やらない理由」にはならないと思う。
この考えを教えてくれたのは小学6年生の時に、同じ演劇部に所属していた友人である。
演劇部の発表のため、新しい劇の配役を決めることになった。私は脚本・その友人は監督をしており、5人が同じ役を希望していたことから休み時間にオーディションをすることになった。
発表する順番は5人で決めていいと伝えると、誰から発表するかを決めかねて、恥ずかしいから最初は嫌だと皆で譲り合っていた。ジャンケンで決めようとした時、1人の子がそんなことをしていたらセリフを忘れそうだからと、1番に発表をすると言い出し、私たちのところへ来た。
その間に残りの4人でジャンケンをし、順番も決まったようだったが、監督の彼女はもうオーディションは終わりだと伝えた。私と他5人がポカンとしていると、クールに彼女言った。
「恥ずかしくてできないようなら、発表なんかできない。恥ずかしくても、1番にやると自分で決めたこの子にする」と。
もうその子の名前も顔も覚えていないが、その言葉は20年以上たった今も頭から離れない。
・・・
緊張しない方法や恥ずかしさを感じないような術を知りたいとは思わない。緊張や恥ずかしさは、無くすことではなく、持ち合わせた上でどうするかを考えべきだと思うからだ。
恥じらいは不要ではない。
毎日更新しているこのnoteもそう。何者でもない私が、不特定多数の人たちに思考や文章を披露することは、恥ずかしさの極みである。
でも、その恥ずかしさとともに更新し続け、得たものがたくさんある。
だから、どうやって無くすかよりどう付き合っていくか。恥じらいって、そういうものではないかと。
今後も有料記事を書くつもりはありません。いただきましたサポートは、創作活動(絵本・書道など)の費用に使用させていただきます。