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【読書感想】コミュニケイションのレッスン / 鴻上尚史

題名:コミュニケイションのレッスン
作者:鴻上尚史


■はじめに

『コミュニケイションのレッスン』というタイトルだから、もちろんその技法が書かれています。
でも、個人的には本書の序盤に出てくる「世間」と「社会」の話が面白かったので、こちらをメインに書きます。
というか、技法は書かなくてもいいかなと思います。
だって、技法を書き出したら、本の内容をそのまま書かないといけないので、つまり大変で、つまり堕落しきった私には到底できないことだからです。


■目次

1:「世間」と「社会」の違い
2:「世間」はいつ生まれて今どうなっているのか
3:どうコミュニケイションをすればいいのか


■「世間」と「社会」の違い

「世間」とは、あなたと利害・人間関係があるか、将来、利害・人間関係が生まれる可能性が高い人たちのこと
具体的には、会社の同僚やクラスの仲間、付き合いのある隣人です。
「社会」とは、今現在、あなたと何の関係もなく、将来も関係が生まれる可能性が
低い人たちのことずばり、他人です。

ちなみに最も身近な「世間」は家族なので、自分のコミュニケイションの仕方は家族に強く影響されます。

日本人は、「世間」との付き合い方はよく知っているが、「社会」との付き合い方は得意ではないそうです。
対して、欧米は「世間」がなくて、「社会」のみです。
日本と欧米の違いは、エレベーターで知らない人が乗ってきた時に現れます。
日本人は黙ってしまいますが、欧米人は気軽に話しかけます。
これは、日本人は知らない人=「社会」という例外的な空間と思っているので黙ってしまうのに対して、欧米人は「世間」と「社会」の区別がないから、普通のこととして話をするのです。

「世間」は同じ価値観を持ち、メンバーの幸福を考える集団です。
なので、どんな嫌な提案でも、巡り巡って自分の為になると思い、NOと言えないような状態になります。
反対に、「社会」は自分と無関係な世界だから、きっぱりとNOと言ってしまいます。

欧米もきっぱりとNOと言うイメージがありますが、日本みたいな拒絶感は少ないそうです。
つまり、お前関係ないからNO!の日本人に対して、私の都合上できないからNOですと、突き放した言い方にはならないのが欧米です。

この、日本人特有の「世間」と「社会」が、コミュニケイションを複雑にしている要因になっています。


■「世間」はいつ生まれて今どうなっているのか

「世間」は、明治時代以前にあった村社会がルーツになっています。
「村」では、米を作るために、みんなが協力するという掟がとても大切でした。
1人の利益ではなく、村全体が生き延びることが重要でした。

しかし、明治時代になって、政府は「村」より「国」としての一体感を強くする必要が出てきました。
つまり、村=世間から、国=社会を定着させようと、学校や軍隊、工場に人々を集めたのです。
ただし、集められた人々は、例えば、学校では気の合う仲間とだけ仲良くするという小さな「世間」を作りました。

現代になると、終身雇用により従業員を守る企業が「世間」の役割を受け継いでいます。

その「世間」ですが、著者は中途半端に壊れているといいます。
理由は、多様性の広がりや、終身雇用の崩壊などです。
これらが浸透することで、「世間」と深いつながりを感じることが難しくなっているのです。
ただし、「世間」は中途半端に残っています。

例えば、「みんな君の悪口を言ってるよ」と言われたとき。
特に深いつながりがなければ気にしませんが、親密に関わっているグループだと、ドキリとします。
このドキリが「世間」になります。

ドキリだと抽象的なので、「世間」の5つの特徴を紹介します。

①年功序列 ⇒ 年上が偉い
②共通の時間意識 ⇒ 共通の過去、現在、未来を共有している
③贈与・互酬の関係 ⇒ 何かもらったらお返しをする
④差別的で排他的 ⇒ 自分のグループには優しい
⑤神秘性 ⇒ 外部には分からない謎のルールがある

そして、この5つの特徴のいずれかが欠けた時、「空気」として現れてきます。「空気読めよ」ってやつですね。

(ちなみに私はこの「空気」が全く分からない子供時代を過ごしました。空気読みすぎて沈黙したり、読めなさ過ぎて叫んでました。はずかしっ)


■どうコミュニケイションをすればいいのか

日本人は、どうしても同じ価値観である「世間」を前提としてコミュニケイションをしてしまいます。
その為、人間は分かり合えるのが当然だと思ってしまいます。
ですが、これは間違いです。

大切なのは、「人間は分かり合えないのが普通の状態だ」と思うことです。

例えば電車の中にいるとします。
隣に座っている人のイヤホンから音が漏れています。
「世間」で考えると、うるさい!と感情をあらわにして言えば伝わると思ってしまいます。
ですが、「社会」で考えると、「イヤホンから音が漏れているので音量を小さくしてもらえますか」と丁寧な言葉で説明する必要があります。

この、「社会」で通用する話し方が大切になってきます。
これを前提に、コミュニケイションのレッスンを学んでいくことになります。

(再びお伝えしますが、具体的な技法はこちらには書きません)


■執筆後の感想

「世間」と「社会」という新しい見方ができるようになりました。
なので、私の悩みの人見知りや孤独の原因も、ここから導くことができそうです。

ずっと狭い「世間」で生きてきたから、「社会」で否定的なことを言われて傷つく。
「社会」から逃げて「世間」に戻ろうとしたけど、「世間」のみんなは「社会」に出て、「世間」はなくなっていた。
帰るべき「世間」はなくなり、「社会」で頑張るのが普通という「空気」に変わっていた。
再び「社会」で生きるようになるけど、帰る「世間」がないので、心が彷徨っている感じになる。
さらに「社会」から逃げたら終わりという「空気」をずっと感じている。
「世間」である家族も結局他人だから、居心地が悪くなる。
気付いたら、「世間」も「社会」も生き辛くなり、誰とも親密な関係を築けなくなってしまった。

こんな感じでしょうか。

「世間」と「社会」以外に生きる場所はあるのでしょうか。
それは、コミュニケイションを必要としない「孤独」しかないのでしょうか。
「孤独」を抜け出そうとするけど、「空気」が邪魔して「世間」あるいは「社会」に入れない。

こういう閉鎖感が、現代の精神病の大きな原因の一つだと思います。
しかも「世間」がないから味方がいない、超絶ハードモードです。

この閉鎖感は自分のせいなのか、世の中のせいなのか。
それとも、疑問に思うことすら可笑しなことなのか。

ここまで考え悩ませてくるこの本は、とても読み応えがありました。

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