2回も煎じたお茶には味があった
こんにちは、葬祭の道化師 原作の風林です。
本日は「あれのパクリじゃん」って手垢のつきすぎた言葉について色々お話をしていこうと思います。
さて、珍しくさっそく本題に入っていきますが、最近ある記事を目にしました。
週間少年ジャンプ連載「魔女の守人」という作品がなかなかどうしてバッシングを受けているという内容です。
私は申し訳ないことに本作を読んでいないのでなんとも言えなかったのですが、叩かれている内容は以下の通りでした。
・アクションカットや設定が進撃の巨人のパクリだー
(国の城壁、自身の手を噛む、機動装置による移動方法)
・技名が鬼滅の刃のパクリだー
(例:一ノ技 双式ノ構エ)
と言った具合でプチ炎上を起こしていたようです。
漫画を例に出させていただきましたが、
「○○のパクリだー」という言葉は様々な場面で耳に入ってきますね。
ところが…
「NARUTO」を読んで、火影やら忍者やら「烈火の炎」のパクリじゃん!とか
「鬼滅の刃」を読んで、技名が「家庭教師ヒットマンREBORN!」の山本のパクリじゃん!
なんて言った人はいないんですよね。
じゃあ、「鬼に家族皆殺しにされた。と思えば1人だけ生きていた。しかし、鬼になってしまっているようだ。ただし自我はある様子。」
って1話のフレーズを聞かされたとして。
今このnoteをお読みの貴方は何を想像したでしょうか?
おそらく「鬼滅の刃」の第1話でしょう。
しかし、私はわざと「鬼滅の刃」を思わせる言い方をしています。ですが実際には「終わりのセラフ」第1話のあらすじを説明してるんですね。(❌鬼→⭕️吸血鬼)
私が何を言いたいかと言うと。
現代に限らず、ずっと昔から物事は飽和状態であるということです。要は、似たような内容で溢れかえっているってことですね。
あなたが、今渾身のアイデアを閃いたとしてもおそらく1万人は既にそのアイデアを閃いています。
漫画作品のパターンが既存のものと似通ってしまうことは何も珍しくなく炎上の火種すら着ける必要は無いんです。
そして、ここが重要なのですが、
今あなたが生活する上で使用している当たり前のもの。スマホかもしれない。家電かもしれない。何かのサービスかもしれない。
往々にして、既存のものをパクって生まれてきた賜物です。
意図的かもしれませんし、意図しないパクリかもしれませんが。
もし、スマホが生まれなかったとしても、何かをパクって生まれたスマホに変わる別の何かが今頃私たちの生活の一部となっていたでしょう。
パクリとは時に「二番煎じ」なんて言い方をされているかと思います。
先述のルールを今一度簡潔に表すと「今ある大抵のものが二番煎じ」ということになります。
ここで大事なのは、その二番煎じが今の私たちの生活の大半を支えてるってところですね。
結論になりますが、
どうやら「二番煎じ」のお茶には「一番煎じ」のお茶とは違った、いや、それ以上の価値を持った風味が生まれるということがよく分かります。
おそらく、この先も今味わっているお茶を超える「2回以上煎じたお茶」が次々と登場してきます。
その加速についていけなくなると。
あるいはその加速を許容出来ず、認められないと彼らのようにこう発言して時代の片隅に置いてかれるでしょう。「○○のパクリだ」と。
ということで、本日のお話は以上となります、
こう考えてみると「魔女の守人」にもそれならではの風味が感じられることがわかるかと思います。私も未読ですが、近々手を伸ばしてみようかと思います🙆
©カザバヤシ/葬祭の道化師
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