手の中にある透明なバトン
親しい人が、ぽつりと言った。
「自分がいない場所に、違う時間が流れていることが、さびしい。」
自分はあまり考えたことがなかったし、さびしいと思ったことがなかった。
いつも一緒にいる人が過ごす「自分がいなかった時間」を想像すると、どんな気持ちになるだろうか。
あるいは自分がいなくなってしまった後の時間を想像すると、どんな気持ちになるだろうか。
人と過ごす時間の希少さ
自分が知らない間に、他人の時間は流れていく。自分が過ごす時間と同じだけ、他人も時間を過ごしている。
人と人が一緒にいることは、つくづく奇跡的なことだと思っている。
どれほどの確率で巡り合い、どれほどの確率で一緒にいるのか。
巡り合った後に、つながれている確率はどれほどか。
その希少さを思えば、一緒に時間を過ごせているだけで、それは幸運すぎるほど幸運なのだと思う。
さびしさをともにする人の大切さ
どうしようもなく一人になりたいとき
他人からの優しさを受けられないとき
自分を少しだけ雑に扱いたいとき
矛盾するようだけど、他人を拒絶したいと感じるときほど、寂しさを強く感じるときほど、他人が必要なときだと思う。
寂しいときに一緒にいる人は、ただの人ではいけない。とても大切で自分の全存在を受けていれるくれるような人が必要だ。だ。
下手な期待や先入観を持たず、未来と成長を信じていて、個人として尊重をしていて、存在を認めてくれる。
どうにも弱ってしまい、自分が自分で受けいれられないときには、信頼できる誰かに自分を受け入れてもらうのがいい。
世界中が敵になっても、自分の味方でいてくれるような人を見つけたならば、その人のことを一生大切にしたほうがいい。
私いう存在がなくなってしまうのは、自分自身の理解や感覚というものよりも、他人に思い出されなくなったらなのだろう。
はじめてを受け取るこわさ
人生で何度かだけ、無償の想いを受け取ったことがある。それは初めてみたときには、こわいものだった。
何者でもない自分が受け取ってよいのか
何か裏があるかもしれない
本当に、受け取っていいのだろうか
いままで自分が受け取ったことがなかったものを、初めて受け取ろうとすることには不安が伴う。自分がまるごと揺さぶられるような気持ちになった。
そういった不安な気持ちを乗り越えさせてくれたのは、相手への信頼と過去の自分を決別する覚悟だったように思う。
いままでの自分ではしない選択を後押ししてくれるような人がいて、その人とならきっと大丈夫だと思えたとき、目には見えない大切なバトンを受け取ることができる。
目には見えない透明なバトン
愛というものは、きっと透明なバトンのようなものだ。
誰かから受け取ることで初めて理解できて、誰かからもらうからこそ自分から他の誰かに渡すことができる。
だから自分も受け取ってみるまで、とてもこわいものだった。けど受け取った後にはたしかに感じることができ、またそれを相手に渡すことができるとも思える。
このnoteを書きながら、ふと自分がさびしく感じない理由が分かった気がした。
自分の手には、目には見えないバトンがある。大切な人たちからもらった、大切なバトンを握りしめている。
このバトンを握りしめている感覚が、バトンに残る人の体温が、さびしさを溶かしてくれる。
大切な人たちからもらったものが、いまのぼくを支えてくれている。
バトンを次の人に渡していく
自分はこのバトンを失わずに持ち続けられるだろうか。きちんと大切な人に渡すことができるだろうか。大切な人は受け取ってくれるだろうか。
少しだけ不安を感じながら、それでも受け取ったバトンのあたたかさを感じながら、今日も誰かからもらったバトンを、大切な人たちに渡したいと思う。
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TOP写真は、沖縄・竹富島。手をつないでいる親子の間にもたしかにバトンが存在する。
最後まで読んでいただきありがとうございます。