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5月26日(日)

生きているだけで疲れる。何をしていても疲れる。どうせなら楽しい疲れの方がいい。


ビジョンなどない。コンセプトはある。目指す方向を指すコンパスの針の機微を気にかけておけば、それで十分。何かを成し遂げる必要も、何者かになる必要も、話をふくらませる必要もない。事実と感情と経験の積み重なりは、十分に人の生きる時間たり得るから。


今週はイベントを開いたり雑談企画に応募してくれた人とおしゃべりしたり社会に開かれていた週だった。なぜかだいたい毎晩Twitterスペースを開いて友人や初めましての人とおしゃべりしている。

季節の変わり目のせいか、一晩に満たないくらいの間、体調を崩した。まったく体に力が入らなかったので、長い時間を睡眠に充てた。体調を崩した時にしか開けない扉のようなものがあり、気だるい精神から覗く世界の風景は嫌いではない。それがどんな風景かを言葉で書くのが難しいが、元気な時には目に止めることができない美しさを発見できるような空間になっている。


仲野太賀がアラスカを歩いた動画みたら、アラスカ行きたくなっちゃった。

たぶん7年くらい前に冬のアラスカに行って、オーロラを見た夜をいまだに鮮明に覚えている。

コンデジを10数秒露光して写したオーロラ

マイナス20度の寒空の中で、ずっと見ていた。この世で最も大きな自然現象の一つで、最も美しいものの一つだと思っている。オーロラを見るためだけに、三週間程度、フェアバンクスのログハウスに一人で暮らしていた時間はとても贅沢な時間だった。


何かに殺されることがなかった。何かに生かされることばかり。傷ついてもそれはいつか生きることにつながっていた。生き残ってしまったという事実だけがあった。劇的ではない自分の人生に嫌気を感じていた。

小さなことを大きく見せることはできるかもしれないが、それに何の意味も感じない。過去の自分を丁寧に殺すこと、それまでとは決して同じように生きられないようにすること、同じように生きる選択肢をなくすこと。徹底的に殺すこと。それを通して、過去とは異なるレールに自分を乗せること。自分にとって、文章を書くことと詩を書くことには殺すことが含まれている。


自分のことをかなり面倒なやつだと自覚したのはいつだっただろう。

何もしなさそうな顔をして人を攻撃することがある。知っている話を知らないふりをして聞くことがある。その人らしさを見たいと考える一方で感情が発露される瞬間に居合わせることは苦手だと感じる。自分の言葉の定義やニュアンスに厳格でそれを人に押し付けないような振る舞いをしながら人に押し付けている。

自分でも正解かわからないことを話して、「正解かどうかわからないんですよね」と付け加えてお茶を濁している。「これを言うことは迷ったんですが」などと前置きを置いてさも言いづらそうに言いたいことや聞きたいことを伝えている。人と話すことに面白さは感じるが、その人に感情的に寄り添い続けることはあまりできない。人の感情の機微を察知することはできても自分に向けられる感情にはひどく鈍感だ。

自分の基本な傾向は怠惰でスボラな性格だが、外で人と会う時間の中ではあまりそういう部分が出ない。誰かと何かを勝負することに疲れてしまって何かの軸線上に乗りそうな時は軸ごとずらしてしまう。幸せそうな人を見てもわたしからは見えない部分で異なる一面があるのではないかという前提を外せない。「誠実なんですね」と言われても素直に受け取れず、「誠実であれたらいいなと思っています」と返してしまう。人との距離が空きすぎてしまうことはさみしいと感じるが、人との距離が近づきすぎそうになると距離を取ったり小さな拒絶をする。

人が前向きに苦悶する表情がすきで見るたびににやにやする。正しく悩むことは、人には必要なことだ。それを是として、自分が思い悩むことを正当化している。


友人からもらった台湾茶がおいしくて、水の代わりにごくごく飲んでる。色も綺麗で眺めているだけでも楽しい。


おざぶで雑談、引き続き募集しているので、ぜひお気軽に。


最後まで読んでいただきありがとうございます。