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1996年からの私〜第21回(09年)三沢さんとの最後の酒席

NOAHの地上波中継打ち切り

前年のリーマンショックを機に売上のアベレージが一気に数千部下がり、回復傾向が見られないまま年が明けました。この頃は寝ているときも次の号の表紙はどうしよう…と頭を悩ませていて、常に頭の中は起きているような状態。安眠したことはほとんどありませんでした。

そうしたなか、3月いっぱいでNOAHの地上波中継が打ち切りとなり、プロレスの世間的露出の減少に拍車がかかります。一方、日本テレビの地上波中継打ち切りに伴い、サムライTVでNOAHの試合中継が復活することになりました。4月からの中継復活を前にサムライでは過去のNOAHを振り返る特番を企画。プロデューサーから、特番の進行役を務めてほしいという依頼がありました。

ところが私は撮影日の前日に出張に行っていて、予定されている撮影開始時間には間に合わない移動スケジュールでした。事情を話してお断りすると、それから数分後に再びプロデューサーから電話がありました。

「三沢さんが進行はぜひ佐久間くんにやってほしいと言ってるんです。開始時間は遅らせてもいいと言ってるので、佐久間さんが来られる時間に設定します」

三沢さんからの直々の依頼とあれば断わるわけにはいきません。当初の予定よりも開始時間を2時間以上後ろ倒しにしてもらい、進行役を務めることになりました。その後、三沢さんから「収録の後、予定あるの?」と電話があり、空いていることを告げると「じゃあ終わったら飲もう」と約束しました。

現場の担当記者時代は毎シリーズどこかで飲んでいましたが、編集長になってからは一度も一緒に飲みに行ったことはありませんでした。三沢さんが他団体との関係を気づかって、距離をあけるようにしてくれていたのはわかっていたので、このとき誘いがあったのは少々意外であり、それと同時に久しぶりの酒席が本当に楽しみでした。

しかし、この時の酒席は後になって、苦い記憶として残るものとなります。

弱音を吐く私への三沢さんの言葉。「人のせいにしてもしょうがない」

話は前後します。第18回で書いたように、編集長就任時は「敗戦処理」と言われ、各団体で挨拶をしたときもポジティブな反応は少な目でした。そうしたなか、三沢さんに編集長就任、それに伴いNOAH担当を離れることを告げたときのことはハッキリと覚えています。

三沢さんは「おめでとう……でいいんだよな」と言って笑いました。「おめでとう」の後に2秒の間。週プロが大変な状況であることはわかっている。だけど、オマエならやれる。だから「敗戦処理」でも「貧乏くじ」でもない。そうだろ?と、激励してくれている。2秒の間でそれが伝わり、“俺がやらなければ”という思いがより強くなりました。5年前に不安を抱えながらNOAH担当になったときとまったく同じです。三沢さんの言葉に勇気づけられたのです。

三沢さんと話せば勇気をもらえる。三沢さんに話を聞いてもらえば元気になる。そんな思いがあったのでしょう。収録後の飲み会で、私は弱音を吐いてしまいました。

「前年の秋から急に売上が下がってこのままではやばい」
「プロレス界がこんな状態だから何をやっても売れないしきつい」
「みんな文句ばかりで四方八方から矢が飛んでくる状態がしんどい」

……etc。おそらくこんなしょうもないことだったと思います。そして「NOAHも地上波なくなってきついですよね」と、しんどい状態に同意を求めようとしたところ、一刀両断されました。

「それは誰のせいでもないからな。人のせいにしたってしょうがないからさ。そんなこと言っても良くなるわけじゃないんだから、やれることをしっかりやっていくしかないだろ」

一瞬にして酔いが醒めるようにハッとさせられました。できない理由を何かのせいにしないと決めていたはずなのに、しんどくて弱音を吐いてしまった。三沢さんはそんな私が嫌だったのでしょう。こんな話をしたって楽しいわけがありません。今までは飲みの席でこんな話をしたことがなかったのに、編集長になって悪い意味で変わった自分を見せてしまったみたいで居たたまれない気持ちになりました。

そんな私の様子を察してか、その後は当時、子供がハマっていた戦隊ヒーローの話となり、歴代戦隊ヒーローもののヒロインでは誰が一番カワイイかというしょうもない議論に終始。和やかな時間を過ごしました。三沢さんの前で弱音を吐いたことを後悔しつつも、バカな話をして元気が出ました。

2009年3月16日。これが私が三沢さんと最後に飲んだときの思い出です。それからおよそ3カ月後の6月13日、三沢さんとの永遠の別れが来るとは、このときは知るよしもありませんでした。そして、この日の出来事を強く後悔することになるのでした。

つづく

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