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1996年からの私〜最終回(15年)2009年6月13日からの三沢光晴〔後編〕

6年の時を経て知る齋藤彰俊の気持ち

三沢光晴さんの七回忌に向けた書籍の取材も大詰めへと近づいていました。残された大切な取材は、結果的に“加害者”となってしまった齋藤彰俊選手、そして最後の技となったバックドロップをただ一人撮影していた落合史生カメラマン。どちらも書籍としての重要度は高く、私としても6年間抱えてきた思いに決着をつけるためにも不可欠な取材でした。

齋藤選手の取材は当時ディファ有明に在ったNOAH事務所にておこなわれました。取材場所の一室に入ってくるなり、齋藤選手は「包み隠さず話すので何でも聞いてください」と、試合時と変わらないような真剣な眼差しで言いました。

試合中のこと。バックドロップの瞬間のこと。リング上で三沢さんが倒れたときのこと。病院でのこと。三沢さんが亡くなった後に考えたこと。真由美夫人と対面したときのこと。それからの日々のこと…。齋藤選手は最初言葉通り、包み隠さずすべてを話してくれました。

取材は長谷川さんがインタビュアーとして齋藤選手に質問。私が補足する形で進んで、1時間以上が経過していました。書籍に必要なあのときの話、それからの話はだいぶ聞けていましたが、私には個人的に齋藤選手にどうしても聞きたいことがありました。しかし、それはもっとも怖いことでもありました。当時の週プロの報道について、どう思っていたかということです。

あのとき、私は編集長として最後の技となったバックドロップを掲載するか否かの判断を会社に一任されました。そして技に過失はないと判断して掲載。現場の記者には齋藤選手を肯定も否定もせず、事実を正確に伝えろと指示しました。すべて良かれと思ってやったことですが、当事者はどう感じていたのか? 一部から「あの写真を載せるなんて週プロはひどい」という声があることものちに知ったので、聞きたいけど聞くのが怖かったのです。

この機を逃したら永遠に聞くことはない。自分に決着をつけると覚悟して始めた仕事。私は意を決して齋藤選手に「あのときの週プロは見ましたか?」と問いかけました。そして自分は齋藤選手、三沢さんの名誉を守るため、バックドロップを掲載したと告げ、だけどそれが本当に良かったのか6年間答えを出せずにいたことを告白しました。

これに対して齋藤選手は「齋藤が技を失敗したという声もありましたが、自分はそれに反論するつもりはありませんでした。だけど週プロさんは『普段と変わらないバックドロップだった』と書いてくださっていました。あのときの週プロさんと佐久間さんには本当に感謝しかありません」と語りました。自分の思いはすべて齋藤選手に伝わっていた。この言葉を聞いた瞬間、嬉しいとも安堵とも違う、言葉にはできない感情が溢れてきて、その感情が胸につかえていて何かを溶かしてくれるようでした。

2時間に及ぶ齋藤選手への取材を終え、ディファ有明を後にします。帰り道、ずっと一緒に取材してきた長谷川さんは私の気持ちをわかっているので「こういうことがあるから取材っていいですよね。良かったですね」と言葉をかけてくれました。前編で書いたように取材の後は毎回二人で飲んでいましたが、この日はそれはなし。私が一人で気持ちを整理できるようにという、長谷川さんの配慮であることはわかっていました。

「答えは自分で見つけろ」

いよいよ最後の落合カメラマンの取材を残すのみとなりました。落合さんは私が退社した数年後、カメラマンを辞めて東京を離れたという話を聞いていました。理由はいろいろあるでしょうが、そのうちの一つにあの日のことがあることはわかっています。名カメラマンとして名を馳せた落合さんがなぜカメラを置いたのか? そして東京を離れてどんな生活をしているのか? もしも幸せではなかったとしたら…。いろいろなことが頭を過ぎります。

そして取材アポを取るために数年ぶりに落合さんに電話。「どうしたの? 元気?」。電話越しに聞こえる以前と変わらない明るい声に少し安堵して取材を申し込むと、「仙台に来てくれればいつでもいいよ」と快諾してくれました。

数日後、私と長谷川さんは落合さんの住む仙台へ。落合さんは以前とまったく変わらないフレンドリーさで、車で当時働いていた幼稚園を案内してくれました。そして、場所を変えてあの日のこと、あの日からのことを聞かせてもらいました。

話を聞いていて、広島、博多出張を終えて落合さんが編集部に帰ってきた日のことを思い出しました。あの日、「お疲れ様でした。大変な取材ありがとうございました」と私が声をかけると、落合さんは「どうも」と一言。それ以上はとても話せる空気ではなかったため、何も言えませんでした。6月13日の話は完全にタブーだったのです。

6年越しにあの時の話を聞き、葛藤やその心情を知り、心が重くなる思いでした。しかし、落合さんは自分が東京を離れて新たな道へ進んだことに一切の悔いはなく、「三沢さんと知り合えて良かった」と清々しい様子で言いました。その言葉に偽りがないことはハッキリと伝わってきました。

話が前後しますが、あの取材後、カメラの仕事も少しずつ再開したという落合さんと、昨年は一緒に仕事をする機会に恵まれました。東北楽天ゴールデンイーグルスの特集本の取材で5日間仙台に滞在し、落合さんとともに取材をしました。精力的な撮影ぶりと、出来上がりの写真はさすがというもの。まさかもう一度、一緒に仕事をできる日がくるとは思ってもみなかったので、この機会には感謝しかありません。もしかしたら、あの取材、書籍の発行により、落合さんもいろいろな思いに決着がついたのかなと思いました。

すべての取材が終わり、6月13日の命日を前に魂を込めた一冊『2009年6月13日からの三沢光晴』が発売。「答えは自分で見つけろ」という帯の文字を見た真由美夫人は、「本人が言ってるみたいに感じた」と喜んでくれたという話をNOAH経由で聞きました。そして協力してくれた方たちからも温かい言葉をいただき、辛い思いをすることもあったけど、本当にやって良かったと思うことができました。

三沢さんが残したメッセージ、「答えは自分で見つけろ」。これはすごく深いメッセージです。取材中、三沢さんと関係の深かった方たちはみんな「三沢さんならどう考えるかな?」という言葉を口にしていました。だから「答えは自分で見つけろ」。悩んだとき、迷ったとき、困ったとき…結局答えは自分で見つけるしかないのです。

2009年6月13日、私は取材に行ける状況でありながら広島には行かず、結果的に最後となった三沢さんの試合を見ることはありませんでした。なぜ自分はあの場にいなかったのか? その後に私の回りに起こった出来事と、一つひとつ迷いながら進んできた道。あの日から刻んできた時間に対する自分なりの答えを、私は見つけることができたと思っています。それは自分の中で消化すべきことなので、あえて文字にはしません。だけど、2009年6月13日から封印していた思いは解き放たれました。

あの日からこの一冊をつくり終えるまで、さまざまな心の葛藤があり、三沢さんとの楽しい思い出すら話すことができませんでした。でも今は違います。三沢さんから学んだこと、楽しいエピソードは積極的に伝えていきたいと思うようになりました。それが私にできる三沢さんへの恩返しなのではないかと今は思っています。週プロを離れ、BBMを退社してから5年。自分の気持ちにようやく一つの決着をつけることができました。

おわり

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