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1996年からの私〜第26回(10〜12年)呪縛を解いてくれた金髪の大男

新規事業のデジタルマガジンは失敗

2010年7月からライトハウスで働き始め、転職から今年で10年。現在はエンタメ誌、総合スポーツ誌、50代以上向けの生活誌と3冊レギュラーの制作をしています。さらにWEBマガジン「VITUP!」の編集長を務め、加えて書籍は10年で50冊超(1年5冊ペース)、単発のムックやパンフレットも多種多様に制作しています。

制作以外では、日テレG+の「プロレスリング・ノア中継」、「徳光和夫のプロレス自慢できる話」にレギュラー出演。プロレス、野球を中心に月2〜3回程度、イベントMCもこなしています。ハッキリ言って週プロ時代の何倍も多彩で多忙な日々です。

しかし、ここまでたくさんの仕事依頼を受けるようになるまでは、簡単な道のりではありませんでした。「週刊プロレス編集長」という肩書きを外し、何者でもなくなった私はまさにゼロからの再出発だったのです。

今だから言える本音としては、週プロを辞めた時点でプロレスの制作の仕事はしたくありませんでした。プロレスが嫌なわけではありません。むしろ、さまざまな業界で仕事するようになって、プロレス界ほど温かい世界はないと思っています。それでもプロレスの仕事をやりたくないと思っていたのは、週プロでやり切ったという気持ちがあり、もう一度同じ山を登るのは嫌だなと思っていたからです(解説やMCは週プロ時代にやっていない新たな道なので別です)。

ところが物事は簡単にはいきません。私は小さな発展途上の会社に破格の条件で迎え入れられています。利益をもらたす人間として入社した以上、結果を出さなければならないのです。週プロでは毎年売り上げノルマをクリアし、増刊号や別冊をヒットさせたりという結果を出しましたが、それはあくまでも週プロというブランドがあってこそで、私だけの力ではありません。何もなくなった一個人の佐久間一彦として、結果が求められていました。

そしてライトハウス移籍後、新規事業として紙媒体を持たないデジタルマガジンを発行することになります。週プロ時代からコネがあった電通とコンタクトをとり、電通が立ち上げたプラットホーム「マガストア」を使ってデジタルオンリーの媒体を発行していく。電通としてもできたばかりのプラットホームに、独自コンテンツが増えるのはありがたいということで、融資をするからコンテンツを増やしてほしいとリクエストを受けました(未知の世界にしては融資額が大きすぎて遠慮しました)。

プロレス団体ごとにオリジナルマガジンを作る。この発想は週プロ時代に会社に提案したものでもありました。本誌ではどうしてもページに限りがあり、せっかく取材しても載せられないものもある。担当ページが少ないスタッフはハッキリ言ってヒマです。週10ページしか担当がなければ5日働くとして1日たった2ページ。ヒマすぎます。遊ばせておくくらいなら、自分の担当団体の専門デジタルマガジンを一人一冊つくる。そうすればモチベーションも上がるのではないかと考えていたのです。

紙との決別ではなく、プラスαにしたかったのですが、会社は完全にノー。幻に終わった試みが新天地に移った途端に話はとんとん拍子で進み、健介オフィス、DRAGON GATE(発行元はDG)、SMASH、全日本、ユニオン、大日本…と次々に団体オンリーマガジンを制作。しかし、当時のデジタル媒体には広告という概念がなく、またアップルや電通へのプラットホーム使用料もあり、労力に対して利益がまったく割に合わず、事業の継続には限界がありました。

この事業はハッキリ言って失敗です。一番の失敗はビジネスとしてうまくいかなったことではなく、私の気持ちが乗り切れていなかったことです。プロレスにおんぶに抱っこでいいのか?と疑問を抱えつつの仕事であり、新しい世界でゼロからと必死になり切れず中途半端だった。それこそが最大の失敗だったと思っています。私はプロレス界の住人なのか、そうではないのかすらわからない、何者でもない人間です。過去のつながりから良くしてくれる人もいましたが、一方で「週プロ辞めたのに何やってるの?」と思った人もいたでしょう。自分が本当にやろうとしていることと、成果を出すことの狭間で1年、2年ともがき続けました。

「週プロの編集長と仕事がしたいわけではない。佐久間さんとやりたいんです」

そんなあるとき、“元週プロ編集長”の呪縛を解いてくれる出来事がありました。あるパーティーに出席した際、週プロ時代に仕事でご一緒をさせてもらったことがある別業界の人と再会を果たしました。その人、川島悦実さんは"カリスマ美容師”として美容界の風雲児と称される人物で、週プロでは「闘髪」という選手の変身企画に協力してもらいました。

200人以上が出席した大規模なパーティーで周りは知らない人だらけです。そうしたなかトイレに席を立った際、金髪の大男から「佐久間さん! お久しぶりです」と大きな声で話しかけられました。そのインパクトのある姿は忘れられるわけがなく、久しぶりの再会でしばし談笑。川島さんは「また一緒に何かやりたいですね」と言いました。

川島さんはすごい人物であり、この時の何者でもない私としては、恐れ多い存在。後ろめたい気持ちもあり、「実はもう週プロ辞めたんですよ。だから今度、新しい編集長を紹介します」と伝えました。すると川島さんは少し怪訝そうな顔をして「違いますよ」と言いました。

「佐久間さん、僕は週プロの編集長と仕事がしたいんじゃないんです。佐久間さんとやりたいんです。週プロでやったあの企画は佐久間さんだったから楽しかったんですよ。週プロとか別に関係なくて、佐久間さんとまたご一緒したいんです」

周囲が“元週刊プロレス編集長”という肩書きを求める。だから自分もそれに応えなければいけない。そんな日々のなか、川島さんは佐久間一彦という個人の価値を評価してくれました。「週プロの編集長ではなく、佐久間さんと仕事がしたい」。川島さんの言葉は私の呪縛を解いてくれました。この言葉で、私は編集長でなく自分のままでいいんだと思うことができたのです。

後日談になりますが、この後、川島さん以外にも「佐久間さんと一緒に仕事をやりたい」と、肩書きではなく、私個人を必要としてくれる方々がたくさんいることを知りました。現在、イベントでお世話になっている株式会社シャイニングの松尾茂樹さん、オフィスMCグローバルの丸谷敦浩さんらは、“週プロの佐久間”ではなく、佐久間一彦個人とどうしても一緒にイベントをやりたかったと強く訴えてくれました。肩書きではなく、自分のやってきたことをしっかり評価してくれる人がいる。こうして私の精神は自由になることができました。

以後、自らプロレスの仕事を求めることはなくなりました(依頼を受けたものは引き受けますが)。違う世界で勝負していくことを決め、初めて書籍を制作。「野球ステップアップ」シリーズという6冊シリーズの技術書を制作し、これが累計で30回以上重版するヒットとなり、「野球」、そして「技術書」という新しい武器を手に入れることに成功。武器を手に入れることで、次々と可能性が広がっていくのでした。

ゼロからイチを生み出すのはとてつもないエネルギーを必要とします。それを実現させることで人は成長することができます。転職から2年以上が経ってようやく、私は新たなスタートを切ることができました。

つづく

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