見出し画像

両リンの歴史と「両リン学」

昨日、Twitterで「両者リングアウト、不透明決着を見て育った世代は、プロレスを見ながら自然と思い通りにならないことへの耐性、堪え性を身につけてきた」と発信したところ、予想以上の反響をいただきました。古くからプロレスを見ている方は同じようなことを感じていたのだと知り、また、プロレスを見始めた時期により、両リンの洗礼を食らったタイミングもそれぞれで、なかなか面白いなと思いました。

今回は両リンの歴史と人生に必要な(大げさ)「両リン学」を考えていきましょう。

両リン絶滅への道

プロレスを知らない方のために最初に説明しておくと、プロレスはリングの外(場外)に出て、20カウント(PWFルール=全日本プロレスは10カウント)が数えられると、リングに戻れなかった選手はリングアウトで負けとなります。両選手がリングに戻れない場合は、両者リングアウトで引き分けです。古くは場外フェンスの外に出るとフェンスアウトという決着もありました。これは出たら負けではなく、相手をフェンスの外に出してしまうと、出した側が反則負けとなる、子どもには「?」なルールでした。

実力が拮抗した者同士の対戦では、両者が場外でエキサイトしてリングに戻れず両者リングアウト、あるいはタイトル戦では王者がベルトを守るために両者リングアウトに持ち込むということがあり、80年代くらいまでのプロレスでは、かなり多い決着のつき方でした。相撲で言うと、ガッカリ感と頻度的に「はたき込み」「突き落とし」くらいとイメージしてもらえばいいでしょうか。

さて、多くのプロレスファンを失望させてきた両リンの歴史に大きな変化が生まれたのは、1988年に前田日明が旗揚げした第二次UWFがきっかけです。スポーツライクなプロレスを掲げたUWFは、場外乱闘も反則も一切なし。リング内での完全決着が魅力で、チケットがプラチナペーパーとなるほどの人気を獲得し、既存のプロレスを飲み込もうとしていました。

こうしたUWFの躍進に危機感を覚え、ジャイアント馬場率いる全日本プロレスがリング内での完全決着に舵を切ります。1988年頃から少しずつその改革は進み、SWS旗揚げによる選手大量離脱があった1990年からは、ごく一部の例外を除き、全日本マットから両リンは消滅。不透明決着のない明るく楽しく激しいプロレスは、たちまちファンの心をつかんでいくことになります。

両リンが消滅した背景にはレフェリーの存在もあります。実際に和田京平レフェリーにうかがった話を紹介しましょう。馬場さんから完全決着をうながされてからは、場外乱闘が始まってもすぐにカウントを取るのではなく、リングに戻るように促すことを優先し、規定のカウント以上に場外乱闘をしていても、リングアウトにならないようにするようになったと証言しています。場外乱闘の迫力はプロレスの醍醐味の一つでもあるので、ある程度は容認してお客様を楽しませつつ、試合は不透明にしない。そう心がけているというのです。

両リンの歴史に話を戻すと、この流れに新日本プロレスも追随し、90年代以降は新日本マットからも両リンはなくなっていきます。こうして両リンは、プロレス界の絶滅危惧種となっていきました。

脚光を浴びる両リン

しかし、両リンはこれにて絶滅したわけではありませんでした。90年代以降は、その流れを逆手にとって、両リンを売りにする動きもいくつか生まれています。

みちのくプロレスでは、両リンにより、ヨネ原人vsウィリー・ウィルキンスJrの迷勝負が生まれました。ヨネ原人が台車に乗せられ場外を引き回されたあげく壁に激突させられ、そのまま両者リングアウトというのが、お決まりの展開となったのです。これは不透明決着ではなく、水戸黄門の印籠のように「最後の決まり手」と認知された両リンとなり、その歴史に革命(大げさ)を起こしました。

その後も両リンは稀に脚光を浴びる場面が出てきます。有名なところでは2000年のヒロ斎藤(T-2000)と2001年の望月成晃(M2K)でしょう。

20人参加4ブロック制でおこなわれた2000年のG1クライマックスに出場することになったヒロ斎藤は、予選リーグで「全試合両リン」を掲げ、それを実行に移します。最後にブライアン・ジョンストンに敗れ、全試合で両リンとはいかなかったものの、優勝候補の佐々木健介や小島聡を場外道連れに成功。リーグ戦の星取りを混乱に巻き込む両リンとして話題になりました。

翌2001年、これに感化された望月成晃が「両者リングアウト推進委員会」を設立。シングルNo.1決定戦の「エル・ヌメロ・ウノ」で両リンを連発した挙げ句、最後は敗者復活を勝ち上がって優勝を飾ります。その試合後、望月は「今までいろんな団体を渡り歩いてきたけど、この団体が一番弱い」と団体を罵倒して一大ヒールになり、年末のビッグマッチまで駆け抜けていきました。

不透明決着の代名詞だった両リンも、使い方によっては大会のアクセントになることが、こうした歴史からも証明されています。物事は見方を変えれば印象が変わるということを両リンは教えてくれたのです。

両リンから人生に必要なことを学ぶ

両リンによる不透明決着を見て育った世代は、プロレスを見ながら自然と、自分の思い通りにならないことがあると知り、フラストレーションへの耐性、我慢することを身につけてきました。近年は自分の思い通りにならないと、我慢ができず、すぐにキレて暴れたり、あるいはSNSでムキーとなって誹謗中傷をする人が増えています。こうした人を見ていると、両リンから学んだことが人生の役に立っていることがわかります。

新しいプロレスファンの方は「両リンばかりで嫌にならなかったのか?」という疑問を持つかもしれません。もちろん、ガッカリはします。ただ、どうせ両リンだろう……と思っていて決着がついたときの高揚感はハンパないものがあります。その最たる例が1984年2月23日、蔵前国技館でのAWA世界ヘビー級タイトルマッチ、王者・ニック・ボック・ウインクルVS挑戦者・ジャンボ鶴田戦でしょう。

当時、NWAやAWAといった世界タイトルに日本人が挑戦しても、両リンや反則決着で、ベルトが移動することはありませんでした。この日も「どうせ最後は両リンだろう」と予想していましたが、その予想を覆し、ジャンボがバックドロップホールドで完璧な3カウントを奪取して、日本人史上初のAWA王者となりました。

両リンが嫌だから……と言ってプロレスを観るのをやめていたら、この感動や高揚感を味わうことはできませんでした。両リンは我慢することを教えてくれると同時に、一度や二度の失敗で投げ出すな、続けていればいいことがある、と教えてくれたわけです。些細な失敗で「人生の終わり」みたいな落ち込み方をする人もいますが、一度や二度、もっと失敗したって、続けていればいつかは何かしらの成功を手にすることができるはずです。

そしてもう一つ、両リンは「何でも白黒つければいいわけではない」ということも教えてくれます。実はこれって、すごく大事なんです。

SNSを見ていると、自分と違う意見の人間を見つけると、とことん攻撃したがる人がいます。「論破して白黒つけたい」という超絶面倒くさい人が残念ながら存在します。考え方や感じ方は人それぞれなので、すべて同じわけがないんです。だから白か黒のどちらかに決める必要はなくて、両リンでいいんですよ。昔のプロレスはそれでうまくいっていた部分もあると思うし、社会生活でもお互いを生かすために両リンが必要なときはあります。「困ったら両リンにしておけ!」ということです。

というわけで、両リンの歴史と人生に必要な両リン学のお話でした。こうした話を書くと、持論をぶつけてくる方がいますが、それはそれでいいんですよ。わざわざ論破しようとケンカを売りに来ないでください。そこは両リンでおさめましょう。

おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?