マガジンのカバー画像

1996年からの私

32
週刊プロレス7代目編集長・佐久間一彦が、三沢光晴、小橋建太、髙山善廣らプロレスラーに学んだ日々の記録。
運営しているクリエイター

#三沢光晴

1996年からの私〜第10回(02年)偉そうにしない。虚勢を張らない。

三沢さんの激励。「頼りなくなんかない」2002年になって間もなく、当時の週プロのエースで一番お世話になっていた佐藤景さんから、「俺、サッカーマガジンに異動になるから」と衝撃の告白を受けます。日韓サッカーワールドカップの開催により、サッカーマガジン編集部の強化という狙いと、本人のかねてからの希望もあって、3月いっぱいで週プロを去るというのです。 週プロは編集長の佐藤正行さんをはじめ、鈴木健さん、湯沢直哉さんなど、仕事ができる人材は他にもいましたが、揃いも揃って皆さんコミュニケ

1996年からの私〜第21回(09年)三沢さんとの最後の酒席

NOAHの地上波中継打ち切り前年のリーマンショックを機に売上のアベレージが一気に数千部下がり、回復傾向が見られないまま年が明けました。この頃は寝ているときも次の号の表紙はどうしよう…と頭を悩ませていて、常に頭の中は起きているような状態。安眠したことはほとんどありませんでした。 そうしたなか、3月いっぱいでNOAHの地上波中継が打ち切りとなり、プロレスの世間的露出の減少に拍車がかかります。一方、日本テレビの地上波中継打ち切りに伴い、サムライTVでNOAHの試合中継が復活するこ

1996年からの私〜第22回(09年)2009年6月13日からの激動

2009年6月13日プロレスファンにとって「2009年6月13日」という日付は、記憶に刻まれている数字でしょう。三沢光晴選手が試合中に命を落とした、忘れたくても忘れられないあの日です。 前年の秋以降、急激な部数低下を受け、常に数字と向き合う日々が続いていました。この年は表紙になるような大きな試合がない週も多く、頭を悩ませる毎日。ただ、6月第2週は表紙候補のネタがありました。全日本6・10後楽園大会で、船木誠勝選手のプロレス復帰が決定。武藤敬司選手とのツーショットは表紙候補の

1996年からの私〜第23回(09年)人の不幸はビジネスチャンスなのか?

筋が通らないことはしない三沢光晴さんの訃報を伝えた本誌は、発売と同時に売り切れ店が続出し、週刊誌としては異例の増刷。さらにその後に発行した追悼号も瞬く間に売り切れ、こちらも増刷することになりました。 本来、自分たちがつくったものを多くの人の手にとってもらえるのは嬉しいことです。しかし、このときはやるせない思いでした。第21回で書いたように、この3カ月前、三沢さんと最後に飲んだときに、私は売り上げが落ちて苦しいと愚痴をこぼしてしまいました。それが三沢さんの訃報によって雑誌が売

1996年からの私〜第31回(15年)2009年6月13日からの三沢光晴〔前編〕

自分の気持ちに決着をつけるために多忙を極めた2014年の年末、『読む野球』を一緒に制作している主婦の友社の佐々木亮虎さん、そしてノンフィクション作家の長谷川晶一さんとともに企画を考えながら飲んでいました。いい具合に酔っ払ってきた頃、佐々木さんが真剣な表情になって、「三沢さんの書籍を作りませんか?」と問いかけてきました。 「来年は三沢さんの七回忌じゃないですか。佐久間さん、一緒に三沢さんの書籍を作りませんか? いろいろ言われているあのときのことをしっかり取材して、関わってきた

1996年からの私〜最終回(15年)2009年6月13日からの三沢光晴〔後編〕

6年の時を経て知る齋藤彰俊の気持ち三沢光晴さんの七回忌に向けた書籍の取材も大詰めへと近づいていました。残された大切な取材は、結果的に“加害者”となってしまった齋藤彰俊選手、そして最後の技となったバックドロップをただ一人撮影していた落合史生カメラマン。どちらも書籍としての重要度は高く、私としても6年間抱えてきた思いに決着をつけるためにも不可欠な取材でした。 齋藤選手の取材は当時ディファ有明に在ったNOAH事務所にておこなわれました。取材場所の一室に入ってくるなり、齋藤選手は「