私には不幸要素が足りない

この世の多くの人は、不幸が好きなようだ。

「私だって苦労しています」
「私の生い立ちはとても貧乏で…」
「私がここに到達するまでには大変なことがあれこれ…」
それがないと人は関心を持たない。どころか、生まれつきの金持ちを理由なく嫌う人までいる(笑)
この世の多くの人は、不幸がとっても好きなようだ。
こないだ出会った85歳(重鎮らしい)のじーちゃんも「涙と笑いだよ」って言ってた。
確かに、苦労あって成功がより輝いて見えるのは事実で、大変な思いをして手に入れたものがとっても大切に思えるのはわからなくもないし、昔の苦労は今を感謝する材料になるかもしれない。

が、しかし、敢えて言いたい。

笑いだけでよくね!?
苦労なんか別にいらなくね?!!!

なぜ、苦労が必要なのか?
それはただ、苦労を盾にして他人からの妬みを回避しようとしているだけに思える。
「ほら、こんなに大変な思いをしているんだから、こんな富を手に入れて当然なんですよ!」っていう。

もしくは、「ね、あなたも努力をすれば、苦労を厭わず働き続ければ、いつかきっと、輝かしい成功が手に入りますから!!」
みたいな、自己啓発を商売にしている人の商品。

苦労と成功って、一見すると陰陽論に当てはまりそうだけど実は因果関係など全くない。

「朝起きて散歩でもしようとボケーっと歩いてたら急に宝くじ売り場に出くわし、ノリで買った宝くじが1億円の当選くじだった。それを種銭にしてノリで株やったら大当たりしていまや世界のセレブとマブダチの億万長者なんですよ〜。」
なんてお気楽なノリでも良いはず。

苦労ありきじゃないと成功できない、という洗脳でもあると思う。そうすることで、苦労をさせてくる人に謎の感謝が生まれる。

我慢は美徳でもなんでもなく、理不尽には我慢せずに立ち向かわないと、自分が他の誰かに理不尽を強いるようになってしまう。めちゃくちゃナチュラルに、理不尽なことを当たり前のごとく言う。嫁姑問題を考えるとわかりやすい。

苦労の一つや二つしていないと他人の痛みがわからないかもしれないが、わかったところで乗り越えるのはその当人でしかないので、場凌ぎの共感にそんな大した意味があるとも今は思わない。(昔はあっただろうけど。)

そんなことを考えるので、私には不幸要素が足りていない(笑)

世の中のイメージで「これはきっと不幸なんだろうな」という内容はいくらかあるが、それをここに書き出すつもりはない。それを書いたらそういう奴が集まってきてうざいのと、そう言う人らは足引っ張ろうとするから(笑)マラソン大会一緒に走ろうね、みたいな。

他人と比べて自分を安心させてしまったら、永遠に安心材料を欲することになる。自分より不幸な人を作り上げて、その不幸ありきでしか自分の幸せを定義できなくなる。

そんなことより、今あるこの設定が『面白い』んだ。
ゲームはルールがあるから面白い。人生がゲームなら「それぐらいの難易度じゃないと面白くないじゃんね?」って感じで。

それもこれもすべて実験


不幸を表にすると人が優しくしてくれるっていうセオリーはもうテッパン化しちゃったから、じゃあ「あたし?いつもハッピーですけど?」って生きてたらどうなるか?何が起きるか?の実験。
すでにわかったことはもう完了してるから。

この世はゲームの中で、自分でプログラムを組んで動かしてみる実験場なのだと思う。
満足いくクリアの仕方ができたら、また次のオモシロ実験ができるはず!

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