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植物はいわゆる“愛”そのもの

まず愛とは

愛は好きの延長ではなく、好きでも嫌いでもないそれを超えたところにある、赦しに近いもの、どうであろうと存在することを赦すというか、それがそのままそこにあることを赦す、みたいな、なんというか、無視や無関心のギリギリのところで、関心はあり認識はしているけれどもあえて関係をもたない、という、謙虚、というのとはまた違って、なんとなく掴みどころのないものだけれど、みんな心の底では知っていて、それに抗うことで自己を表現したりする人もいたり、あえて抗って苦痛を経験する人もいたり。

という、そんな、他のもので例えようもない状態にあることから、なんというか、もう『愛』としか言えない、言いようのない状態が、愛なのかもな、なんつって。

というところで、植物って本当に存在が愛なんだなぁと、最近この本を読んで改めてそう思いました。

地球人のための超植物入門ー森の精が語る知られざる生命エネルギーの世界

意識もあるし、知性もあるし、意思もある。のに、じっと、そこから動かずに、全てを受け入れて、生きている。

「勝手にしろよ、勝手にするから。まあ多少思うところはあるが、それもこれも、自分の運命だから、いいんだ、これで。諦めじゃない、受け入れてるんだ。これでいいんだよ。ここでこうなることが全宇宙にとって必要なんだから。」

なんかそういう感じなんですよね、植物って。
大昔はもっとちゃんと循環やサイクルというものに、人を含め全ての地球上の存在たちが従っていたと思うんですが、現代はちょっとね、どれほど抗えるか?がビジネスになってお金がたくさん動いていたりするものだからね、狂ってきているんですね、きっと。
もちろん私だって、狂ってきたあとに生まれているんですが。
ただそれも、大いなる大宇宙全体の恒常性によって、どうせ調整が入るので、このまま、プログラムされた生が尽きるまで、感じ続けていくのがここにいる理由なんだろうな、と、思っていたんですが、大昔から植物がそれを体現してくれていたんですよね。

はぁ、植物先輩、すごいっす。


ちなみに沖縄では

でかいガジュマルがあちこちにあります。道を作るときにガジュマルを残して道が作ってあるんです。

「沖縄の人は、自然との共存を大切にしているんだなぁ。」

とちょっと感動したんですが、どうやらそういう意識高い理由じゃなく、

「切ったら悪いことが起きる。本当に、切ろうとしたら事故やなんかで死人怪我人が出るから残している。」

のだそうですw
沖縄の植物先輩は、主張が激しいですw
しかしそういう現象も、上記の本を読んだら合点がいったので、なるほど、沖縄という土地のエネルギーはやはりちょっと特殊なのかもしれないな、と思ったのでした。

自宅近くの公園におられるガジュマル先輩。根に雨粒を飾ってとても美しかったです。


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