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「消費する暮らし」と「つくる暮らし」の境界線の飛び越え方。

40歳になり、自分の暮らしを見つめる機会が増えた。そして2019年にポートランドに住まいを移して、私の暮らしは少し変わった。

移住によって、それはこの街の影響が大きいのだろうが、暮らしの中で消費と生産の境界線を意識するようになった。そして「暮らしをつくりたい」と言いながらも、わりと「消費」する事に慣れきっていたのだなぁ気づいた。

消費する事に慣れてしまったのはいつからだろう

いま思い返せば私の20代の暮らしはひどかった(笑)。富山で育ち、大学で東京に来て、20代を東京で暮らした。仕事が忙しいことを言い訳に、そして東京という徒歩5分圏内で買えばすべてが手に入る環境にかまけて、便利であること、効率がいいことを追い求め、ありものを買って日々をやり過ごす、とにかく楽な暮らしを好んだ。もちろんコンビニはたくさん利用したし、お茶を急須で入れるような日常はなかった。いま思えば「暮らし」というものはそこに存在しなかったように思う。豊かな自然と食材がある、でも簡単になんでも物が手に入るわけではない(当時はAmazonやECはなかった)富山から東京に来た私には、東京の便利さとどんなものでも簡単に手に入る環境は心地よかったし楽しかった。就職して使えるお金も増え、どこにでもある暮らしを入手し消費し続ける毎日、それが日常になっていたと思う。

ひとつ救いだったのは、食事の場は大事、という意識だけはあったこと。食の雑誌の編集に関わったこともあり、料理をつくることだけは、わりと好きだった。20代後半から少しずつ食事だけは自分でつくるようになった。

鎌倉に引っ越して暮らしが変わった

転機は結婚と鎌倉への引越し。意識が変わったからこの変化が訪れたのか、はたまた逆だったのかはわからない。料理が好きになっていた私にとって、鎌倉の農家が売りに来る市場の存在は大きかった。徒歩5分で職場からも家からも通える環境はとても良かった。そこで毎日夕飯は家でつくる習慣ができあがった。

東京と違って、鎌倉はチェーン店が少ない。オーナーの食卓のようなレストランが多く、つくることを生業にする人も多い環境は心地よかった。品揃えの良い書店も映画のレンタルもないし、化粧品や洋服を変えるような百貨店もないけれど、それ以上に鎌倉には自然や美味しい野菜があった。共働きで忙しくなかったわけではないけれど、暮らしを少しずつ自分の手に取り戻して、つくり始めた。自分でカツオ節を削ってひいた出汁、釣った魚を友人からもらって捌いたなめろう、手づくりの味噌がとても美味しいことを知った。

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そしてポートランドに引っ越した。

つくり手を近くに感じる街

鎌倉もそうだったが、この街は、生産に関わるつくり手と生活者の距離がよりいっそう近く感じる。その土地の材料を使い、その土地の人がつくり、その土地の人に届ける。シンプルなこの流れを感じる機会が毎日とても多い。スーパーマーケットに行ってもそう、書店に行ってもそう、雑貨屋さんもそう。結果として、わずか半年暮らしただけだけど、できるだけ街に近いもの、手触り感のあるものを入手したい、使いたい、という気持ちが強くなった。極力住んでいる土地に近い野菜を選ぶ。洋服や靴もどういう場所でつくられたものなのかを辿るようになった。そこに固執しているわけではないけど意識がそこへと向かう。ただ消費ではなく、その先の誰かの支えになったり、基盤となったり、道が続く可能性に加担できる可能性があるなら、それに加わりたいと思いながら買う。

今まで野菜をつくりたい、畑を持ってみたい。という気持ちになったことはなかったのだけど、最近興味が湧いてくるという変化があった。子どもはももっと私より素直に順応しているのかもしれない。私にアクセサリーをつくってくれるようになった。そして最近は服をつくりたいと言う。

暮らしにおけるただの消費は、現時点の欲と枯渇を満たし、必要を間に合わせるもので、まさに「その日暮らし」かもしれない。続いていく、残るものが少ないと思ったりもする。消費する時に一瞬でも、それが自分にとって何を意味するものか、その先に何があるのかを考えると意味は変わるのではないかとも思う。

そう、我が家は私も夫も、Webなどの技術で新しいサービスや事業を考えることが好きだ。だから最新の消費行動や流行りものへのアンテナは失ってはならないと考えていて、購入して試すのも今の生活だ。そういう風に今なぜこれを買うのか入手するのかの意味を考えるようになったのは最近かもしれない。何事もバランスは大事だ。だから一足飛びに、すべてを自分の手でつくる暮らしを選ぶことはないだし、消費活動から生まれるものもきっとたくさんあると考える私もいる。

街をつくること、街に関わること(関係人口になるということも)。それは、消費者と生産者の間にある何か一線を飛び越えて、つくる側へと回る、ということなんだろうな、と2020年に入ってからよく思考している。

「消費する暮らし」と「つくる暮らし」。

グラデーションでなだらかに徐々に変化するというよりも、誰しもに転換点が存在するように思う。そこはいかにしたら飛び越えられるのだろうか。人によって異なるかもしれないし、共通項があるのかもしれない。飛び越えたみんなは、どのように境界線を越えたのだろうか。それがとても気になっている。


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