時間

日々の暮らしの中に大切なことや、そうでもないことも雑多に含まれていて、ある時何かのきっかけで事象として出現することがある。その時びっくりして気付いて、気付いていなかったことに気付いたりもして、「ああ、そうだったな」と思ったりする。

「時間」は、人と人との関係性において唯一共有できるものであり、唯一平等なものかと思う。

1人で過ごす時間と、2人、3人になって、もっと大勢で過ごすこともある。

一生のうち長い時間共に過ごす人、一瞬すれ違う人、喫茶店で注文をとりに来てくれた店員さんとの数秒の時間でさえ、互いに共有しているものなのだ。

時間は平等とはいえ、寿命には差がある。私たちは持てる時間の全てを思うように使うことは不可能だ。そうしたいと望む人もいれば、そうは望まない人もいるだろう。

つまり、いくら「時間」という概念を平等に共有したところで、人と人に関して、そこには解釈の差があるということだ。

それぞれの価値観を以って時間をゆく中で共有するそれは、それだけでものすごく価値のあるというか、貴重で稀有な、重たくもあるものなんじゃないだろうか。少なくとも、私自身はそう感じる。そしてそれがどんな感情を抱くものであれ、そこに一抹の寂しさと美しさがあるものなのではないかと思う。

あなたは今ここに私といますね

それしか無い、というのが人と過ごす時間の本質というか。

そう思うと、一抹の寂しさと美しさの中に愛おしさも芽吹くような

時間を過ごすという点で、空間を共有する必要は必ずしも無くて
1通のメールを開き、返信する時間を1人過ごすことは、宇宙の星々の光が地球に届くのと少し似ている気がする。

1人思うことがあっても、それが何かを経由してどこかを巡って誰かに到達するまでに成長するのだ。そしてそれこそが時間という概念の真の姿

「時が解決する」とか「時間薬」とかいう表現が示すように、時間は、ただ経っているものではなくて、変容と余白とそれに影響する様々な事象を含んでいる。だから「何もしていない」のではなくて、「必ず何か起こっている」のだ。問題が解決するのも、傷が癒えるのも当然なのだ。


私たちは今みんな時間を持っている。何もしなくても与えられる。ただ無尽蔵にあるわけではない。限りがある。だからどうするか決めろというのではなくて、どうにもならなくても大丈夫ということだ。

安心して大丈夫。

ひとまず安心して、深く息をした後に何がしたいか考えよう。


私はとりあえずおやつと、冷たいコーヒーが飲みたいかな。

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