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押し寄せる子供じみた自意識の波と、お誘いについて

ふいに、メッセンジャーの通知が上がった。誰だろう、と思い開くと、それは不意な飲み会のお誘いだった。

私は、人に誘われることが少ない方だと思う。それは、あまりお酒が得意ではないことを周りが知っているからだし、私が上京したのが就職後で仕事が絡まない友人が酷く少ないというのも理由の一つだろう。

あとは私の纏う「生真面目な印象」が手伝って、こう、どうもハメを外すような場を好むタイプに思われないからなのかもしれない。

そんな私も、よく聞くことだが、SNS上で親しい友人が複数人参加しているプライベートな会の情報が流れてくると、とてつもなく不安の波に晒されることがある。

「ああ、私は何かしでかして呼ばれていないんじゃないだろうか」「何か相手を不安にさせたのではないだろうか」「私は、思っているよりも相手とは親密ではないのではないか」「何が悪くって、私は仲間外れにされているんだろうか」

私は、私は、私は。そんな焦燥感から、精神衛生を保つため、一時的に友人でもSNSをオフにしてしまうこともあるくらいだ。

とはいえ大概の場合、私の心配事は全くもって当たっていなくって、ただ別の理由があって集まっているだけだったりする。

だから、あまりにも過剰で、あまりにも面倒で、あまりにも子どもっぽい自意識で心の内を乱すこと自体に毎回、辟易しているのだ。

しかし同時に言いたいが、言わないだけでみんなきっと大人になっても、そんなもんじゃないだろうか、と。

みんな、言わないだけでこう、やきもきしながら、それでもそんなものか、と思っているのではないか。お互い、なんとなく可視化されてしまった具合を見て、ぐるぐると螺旋のように感情が渦巻いているのではないか。

そこまで逡巡してから、そもそも私自身が人を誘わないことに、はたと気がつく。なぜかって? だって、人のプライベートの時間をもらうなんて、申し訳がたたな過ぎるじゃない。きっと、同じことを思っている人もいるに違いないのだ。ぐるぐる、回って回って、辿り着いているのだ。

そうそう、上述のお誘いはもちろん快諾した。

さて最後に明言しておくと、誘われるのは全然嫌いじゃないのだ。いつも行けるとは、残念ながら限らないけれど。

今夜の終わりには、花の香りのするビールの開栓に赴き、小瓶を一つ開けてきた。喉から薫るラベンダーは、香りたかった。

うん。次の約束もまた、楽しみだなぁ。

今日も真面目な記録をお読みいただき、ありがとうございます。 あなたの1日も、素敵な時間でありますように。