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大切なことは遊んでいるときに身についていたという話

子供の頃から、なんとなく会社勤めはできないと感じていた。なりたかったものは、幼稚園の時は花屋さんかタコ焼き屋さん、小学校の時は小説家。中学の進路指導では「雑貨屋さんになる」とか言っていたし、職人とかアーティストもいいなと思っていた。
予想に反して、新卒で大企業に社員として就職したのを皮切りに、結局、17年近く組織に所属し、奇しくも一番ありえない職業ナンバーワンだった「サラリーマン」の虎として、取り上げてもらうまでにもなった。

そんな感じで生きてきたから、仕事に対する考え方は、社会人になってから生まれたものだと信じて疑わなかった。興味を持って聞かれることがあっても、社会人になってからの話しかしなかった。
そういった振り返りの機会が増えていた中、地元大阪での仕事が入った。大阪の街は、南北はキタ(梅田)からミナミ(難波)まで、東西も広くなく、最短1時間くらいで歩けてしまうこともあり、久しぶりに気が向くままに街を歩いた。
そして、東京に戻った後、アポまでの繋ぎで入った本屋で、大阪時代に遊んでいた街で有名だった空間デザイナーの本が平積みされていて、思わず購入した。

間宮吉彦の「間」(2013年12月21日発行)

大阪だと中之島や南港時代のZepp Osaka、私の一世代前の街をつくったクラブQOOやカフェミュゼをはじめ、多くの関西人が一度は行ったことがあるであろう場所、東京だと有楽町マルイや渋谷のClub Asiaなどを手がけた人なのだけど、大事にしてきたことや物事を見るポイントに共通項がありすぎて、「さては遊びが自分の根っこを作ったのでは?」と、思い始めた。
なぜ10年前に発行された本が平積みされていたかは謎なのだけど、次に行った時には、もうなかったので、今、読めということだったのかもしれない。
以下、タイトル含め、引用する。

街は生き物である

大阪南部で生まれ育ち、お笑いやVシネマがお茶の間でお馴染みだったこともあり、ミナミに興味があった。
初めて行ったのは中学3年生の時。アメリカ村は全盛期を過ぎ、南船場や南堀江に人が流れていた頃で、OPAやBIGSTEPといった商業施設もあったけど、あやしげな雑居ビルの中に、全く規則性もなく店が入っているのが面白くて、一発でハマった。
「行けそうな一番いいとこ行っとくか」くらいで、何の目的もなく、高校は天王寺にある進学校に行ったけど、大学まで行くとは決めていなかったから、同級生とは思考が違い過ぎて、他校の友達と遊ぶかバイトばかりしていた。お金もなかったし、ミナミからオフィス街になる本町あたりまでを歩き回っているうちに、顔見知りのお店ができたり、友達がDJやバンドでライブハウスやクラブに出るようになったこともあって、日に日に居心地が良くなっていった。
この時の経験のおかげで、鼻が利くようになり、社会人になってからの飛び込み営業も比較的気が楽だったし、店舗の覆面調査でも見るべきポイントは自然とわかった。

そうこうするうちに、閑散としていた通りが急に栄えたり、逆に、栄えていた通りが急に廃墟みたいになるのを目撃するようになって、街の成り立ちを知りたいと思うようになっていった。
例えば、あるお姉さんがカフェを作ったことがきっかけでアメリカ村ができたり、南堀江が栄えたりして、「この人が動けば街が動く」とまで言われるようになった、とか、あの空間デザイナーがお店を手がけると街が栄える、とか自分が生まれる前のことまで含めて夢中になった。街の歴史にのめり込んでいく一方で、学校の勉強には興味が持てず、特に、日本史・世界史は赤点だった。

いつしか「このあたりでお店をしたい」と思うようになって、高校3年生の時、親にやっぱり大学に行かせてほしいとお願いした。勉強は数学と化学にしか興味を持てなかったけど、経営を学ぶなら文系らしいということだけわかった後は、調べるのも面倒で、また「行けそうな一番いいとこ行っとくか」で、経営学科に行くことにした。
企業経営を一通り経験した今でも思うけど、経営陣とは数字でも会話したいし、理系で経営系学部を選択できてもいいのにな。今はできるのかもしれないけど。

大学は家から自転車で10分くらい、バイトも近所でしていたけど、中崎町などキタにも行動範囲を広げ、変わらず街遊びは続けていた。
バイト先が閉店したことをきっかけに公認会計士を目指したけど、並の人間が難関資格を一発で合格するわけもなく、大学4年生の夏に就活を始め、特に企業研究もせずフィーリングで就職を決めた。決め手は、「大阪の街にあるできるだけ多くの会社に出入りできること」だった。
この会社で配属されたオフィスは南船場にあり、営業先もキタからミナミの間だったおかげで、北浜や淀屋橋も活動範囲になり、オフィス街を見るカンも付いた。転職することを決めたのも、取引先の方の言葉がきっかけだった。今でもめちゃくちゃ的確な助言だと思っているので、本当に人生はうまくできている。

この立地は、本町・淀屋橋界隈で働くビジネスマンやOLと、クリエイターや遊び人たちが共存できる好立地といっていい。心斎橋(鰻谷)やアメリカ村が全盛であった頃は、アウトローな匂いをプンプンさせた遊び人やクリエイターたちがカッコよかった。
しかし南船場では、働くことが美的である。真面目に働くことがネガティブでなく、スマートでクールなイメージに映る。(中略)わざわざ電車やタクシーで出かけなくても、会社帰りにちょっと寄れる小じゃれた店が増え始めた。

06 時代が転生させた街/界隈から「街」へ

転職した会社のオフィスは、前の会社のすぐ近く、アメリカ村の入口にあった。狂ったように働いていたけど、徒歩圏内の宗右衛門町の居酒屋で友達が働いていたり、東心斎橋や鰻谷のクラブで友達がDJやライブをしていたので、よく遊んでもいた。働いていても遊んでいても、近くに朝まで営業している銭湯があり快適に過ごせた。
今はすっかり姿を変えてしまったけど、当時は、食べ盛り・働き盛り・遊び盛りの20代が拠点にするには、とても良い環境だった。

東京の一極集中は加速した。人と金の大移動が始まった。それまで大阪に本社機能を置いていた大手企業が、こぞって本社機能や情報発信機能を東京へと移し始めたのもこの時期だ。関西在住の多くのクリエイターたちも、その活動拠点を東京へ移していった。
大阪は”商都”そして”ものづくりの街”としての機能を剝ぎ取られ、みるみるうちに活気をなくしていった。東京に対抗心を燃やす”おもろくて熱い街”から、その他大勢の一地方都市になり下がり、その存在価値を危うくしていった。

06 時代が転生させた街/30分のロストワールド

数年すると、いよいよ本格的にミナミの雰囲気が変わり、ミナミ寄りにあった企業も梅田にオフィスを移転し始めた。当時、私がいた会社も移転したのだけど、盛り上がり始めたウラなんばや中之島あたりでも遊び始めたところだったので、キタとミナミどちらにもすぐ行ける場所に家を借りた。
オフィスを移転してからは、20代も終盤になり落ち着いたのか、たまにライブハウスに行くくらいで、大阪駅前ビルやお初天神通り商店街、中崎町や天満と、遊びは食に振り切った。同じチェーン店でも雰囲気が違くて、味は同じはずなのに、「東通り(商店街の店舗)は美味しくないから、お初(天神通り商店街の店舗)行こ」とか言っているのも面白かった。

大阪では人間関係もまた、スマートグリッドである。コンパクトな社会だから、ある一定の業界や共通項のあるソサエティの人間同士なら、誰もが顔見知りになれる。ノリがあえば短期間に打てば響く関係になれ、異業種同士のコラボレーションも成立しやすい。各ソサエティでの先輩や後輩の関係も強く、先輩から後輩へ、脈々と受け継がれていく文化もある。人と人とが連鎖的に繋がり、有機的なネットワークが網羅されている。しかしながら、無駄もない代わりに、発展性も少ないというマイナス面もある。心地よさは同時に刺激のなさでもあり、内輪社会のぬるま湯的環境から抜け出せない側面もある。

10 スマートグリッド・オオサカ/地産地消の空間

それから間もなく、メインの活動を東京に移してしまったのだけど、中学3年生から通算25年くらい、大阪の街を見続けていることになる。

事業は“正しいから成功する”ではなく、“成功したから正しい”

栄えているエリアも、店の入れ替わりも激しい街だけど、特別立地がいいわけではないのに、創業50年を超える喫茶店や飲食店、中学3年生の頃から25年通っているセレクトショップ、知る限り20年くらいテナントがほとんど変わっていない雑居ビルがある。
一方で、好立地には、東京や海外で流行っているお店が進出していることが多いけど、1年くらいで全く関連のないお店に変わっていたりする。

大阪で空間を創りつづけていくこと自体、それほど大きな発展性は期待できないかもしれない。しかしながら、次代へと継承されていく文化を創っていくという揺るぎない希望はある。

10 スマートグリッド・オオサカ/地産地消の空間

前者の共通点の一つは、流行りや消費者動向より、自分たちが欲しいものに振り切っていること。やりたいことをして倒産したケースを身近に見た経験があるので、こういうお店に出会ったときは気持ち悪いくらい観察するのだけど、商品に関してだけは「このくらいでいいや」という妥協がない。また、自身が日々進化しているので、一見同じことをしているようでも微妙に違って古さもない。かといって、ギラギラした感じはなく、飄々としているのは本当に不思議だ。
こういうお店は、距離や世代を超えてファンが付き、文化を生み出す。文化が生まれることで、来店可能圏内の人口に売上が左右されなくなったり、影響を受けた人が文化を継承し、オリジナルの店はなくなっても、多くの人の記憶に残る。ただ、事業規模は大きくならないし、そもそも、その意向がない。

もう一つは、お客さんとの距離感が絶妙であること。一見、敷居が高いのに、初めての人にも親切だ。誰かの行きつけのお店に行くと、一緒に行った時は親切だったのに、連れていってくれた人がいなかったり、その人の友達だと言っておかないと対応が違ったり、自分が常連の場合でも、優先してくれるのは有難いけど、初めてのお客さんを雑に扱っているのを見てしまうと残念に思う。常連に特別感を出してくれながらもフラットだと、新規と常連のバランスが良く、雰囲気も良い気がする。
これは、コミュニティにも同じことが言えて、同じ属性で、知り合いだけが集まった空間は居心地が悪く、新しい人は残らない

【ミュゼ】の実績がひとり歩きし、あのデザイナーに相談すれば何とかなるだろうという無責任な目論見の相談話が、次から次へと舞い込み始めた。(中略)街のため、人のためという大義名分のもとに次々と持ち込まれる無責任な相談やアイデアは何の魅力もなく、新たな発想には結びつかず、社会に埋もれていく類の話がほとんどであった。

08 界隈性のデザイン/人気の功罪

しかし、ひたすら消費されていくだけの”ビジネスとしてのデザイン”は何も残らなかった。空間から生み出される様々なものが、出来上がったその場から時代に消費され、消化され、消えていく。

11 20世紀へのオマージュ/ローカルデザインの逆襲

後者の共通点は、消費者動向などをがっつり分析していて、瞬発的な集客力があること。長く続けることよりも利益を重視し、最低限投資が回収できればOK。急速に店舗数も業績も伸ばすけど、時代の変化とともに業容を変え、運営会社もパートナー企業も変えて、常に新しいことをしていこう、共感してもらえないなら働く人も変わってもらえばいい、という感じがある。そして、ギラギラしている。

空間は、デザイナーの手から放たれ、事業環境として機能しはじめてから、初めてその成否が問われる。この成否の指標も、これまた曖昧である。デザインが話題になり、多くを集客し、事業経営が順調であれば成功か。あるいは事業として永く継続すれば成功か。

まえがきにかえて

では、前者と後者のどちらが正解か。
どちらも正解だと思っている。企業経営について、規模もフェイズも一通り経験し、「経営方針によって戦略は変わる」と言っているのは、街を見てきたからだ。
街と同じで、会社も生き物だ。タイミングによって、大事にすべきことの優先順位も変わるから、前提条件を明確にしないまま、戦略を提案することや、ましてや勝ちパターンを語ることなど絶対にできない。
好みで言うと、圧倒的に前者だけど、切羽詰まった状況で、事業継続を優先したいなら、後者の要素を取り入れることもやぶさかでない。
また、事業規模や時価総額で経営の優劣を議論することにも違和感を持っている。軸がブレなければ良いと思っていて、事業規模や時価総額が高水準でも、軸がブレると、戦略も戦術も迷走して負のスパイラルに陥るのが見えるので、良くないと思っている。

出来事を継承する

街からは、多様性も学んだ。
私は、ある日突然、全くお酒を受け付けない体質になり、一切飲めない。にもかかわらず、行きつけにしている酒処がある。

社会人になってから、若者の特権で、偉い人に高級店に連れて行ってもらう機会も少なくなかった。ただ、申し訳ないことに、口が肥えていないこともあったのかもしれないが、いくら予約が取れない高級店だと言われても、本当に美味しいと感じるのは、「この人面白いな」と思った時だけだった。特に、「こんなお酒は他では飲めないのにもったいない」とか「〇〇さんは女の子なのに豪快にお酒も飲んで優秀なのにね」とか言われると、超絶面倒くさかった。私のことより、若者を応援している(と思っている)自分が好きだったんだろうな、と思う。そういうお店に自分で行けるようになっても、そういう人たちに連れていってもらった店には行こうと思わなかったし、覚えてすらいない。
一方で、かっこいいと思う大人は、役職とか社会的地位にかかわらず、当時の私の身の丈に合わせて、自分でも行ける価格帯で、知っていたけど入りにくかったり、そもそも存在を知らなかった名店に連れて行ってくれる人だった。
そういう人たちは、思い出話も自慢にならず面白く、同じ話を何度も聞いていても、「あの話をしてほしい」とこちらからリクエストするくらいだった。無理にお酒を勧めてくることもないし、なんだったら、美味い酒は自分が一番たくさん飲みたいという大人げない感じすらしたから、微塵も申し訳ないという気持ちにならなかった。
ご馳走してくれても、「これからもこのお店を使ってくれたらいいから」とか「別のことで助けてもらうから」とか、対等に扱われていると感じた。お店の人も、年齢や性別、お酒を飲む飲まないに関係なく接してくれるので、居心地も良くて通うようになったし、同じように「この人なら」と思う人に紹介した。
表面上、丁寧な対応をしてくれても対等には扱ってくれないという経験をすることもあるので、本当の意味で多様性を受け入れる人を見る目が付いた。
「若者vs老害」「男性vs女性」といった極端な二極化で、物事を語られることにモヤモヤするのは、そういう街の先輩を見てきたからだと思う。

カタチなきものをカタチにして「価値」を生む

最初は、仕事を依頼されているのか、相談されているだけか、いやただ試されているだけなのか、それすら曖昧である。

まえがきにかえて

組織に所属していたものの、「社内に知見のある人がいない」とか「そもそも世の中にもやったことがある人がいるか定かではない」とか、そんな案件ばかりだった。
自ずと新規事業とか起業といった領域に関わることになったのだけど、実績はさておき、狭義の0から1を生み出す、いわゆるゼロイチだけを過剰に推す風潮もあり、食傷気味だった。

つねに成功に憧れると同時に、成功の恐怖に怯え、成功を否定し、二流あるいは、傍流のポジションに甘んじる。完璧なもの、完成されたものを好まず、しかしゼロも好まない。むしろ少しマイナス地点からのスタートを好む。人が目を付けないものを見つける価値観を”感性”と呼び、効率の悪さをひたすら努力で補うひたむきな人種でもある。そもそもデザインという創造行為は、何も無いところからは生まれない。

06 時代が転生させた街/仕掛ける余地

界隈が熱狂的になればなるほど、比較的幅広い業界と接する仕事をしていたこともあり、「これはあの会社が既にやっていて、こういうところで躓いているから、応用してこういうアプローチをすればいいいんじゃないかな」とか、「これはもうあの会社が作っていて、ここまで実証実験が終わっているから、ゼロから始めずとも、カニバらないよう座組みを組んで、一緒にやれば早いんじゃないかな」とか、盛り上がっているのとは反対方向のことを考えるようになった。

重ねて言うが、街は生きている。だから街づくり、街を活性化すると言うことは、いきなり文脈のない集客コンテンツをもってくるということではない。街そのものの生命力を高める営みである。
私の経験から言えば、街づくりとは、その街にもともとあった地縁や文脈を汲み取り、今から生まれつつ新しい文化、異質な文化をも受け入れながら、今そこに在る負の遺産を転生させていくことにある。過去をじっくり読み解き、現在進行形の未来を察知し、現状を見据え、活かす。時代の空気感を読み、その土地のもつ地場、ポテンシャルを最大限に引き出していくことだ。

05 この街のカタチ/地場を活かす

みんなが興味を失ったものや失敗した事例からヒントを得ることも多かった。リアルしかりネットしかり、全貌を把握するために、一時的にアナログなアプローチで、誰もいなくなった場所に残されたものを掘り起こし、再構築したりするのだが、「あの人は何をしているんだ」という目で見られることも珍しくない。

仕組みを仕組む

しかしデザイナーが最も知りたいのは、依頼主のデータやプロフィールではない。何をもって依頼されるのか。そこにどういった真意があるのか。依頼そのものの本質、つまり”きっかけ”である。(中略)それを見つけなければ話は始まらない。

思考をカタチにする/依頼と要求

フリーになってからは、「自分が最初から最後まで判断して動くこと」を完全に封印した。これから背負おうと思っている人や次世代に、自分の経験が役に立たないか、と考えるようになったからだ。
初めは、勝手がわからなくて、お話をいただくものは、ほとんど請けていたのだけど、ある日、これはワクワクしないな、という条件があることに気付いた。
依頼者のこだわりが見えないもの、自分だけに旨味があればいいというもの、依頼者でなくても他でやった方が良さそうなもの、だった。

凸凹もなくきれいに縁取りされたスーパーフラットな世界観が、塗り絵のごとく容易に仕上げられる。白紙にすることや、取り替えることすら、いとも簡単そうだ。

05 この街のカタチ/迷走する街づくり

新規事業だけでなく、管理部門の構築、幹部候補の採用・育成など、様々な相談を受けるのだが、だいたい、「自社には何もない」とか「ゼロからのスタート」とか言われる。しかし、よくよく聞いてみると、ゼロどころか、価値のあるものが当たり前にありすぎて見過ごされていたり、活用の仕方次第で価値になるものが放置されていることがほとんどだ。
また、世の中には、「新しいものを創り出す」と掲げた手垢のついたビジネスモデルが溢れていて、それは失敗した例がいくつもあって研究材料が豊富だから、視点を変えてアプローチしてみたら成功するかもしれないのに、と思うこともある。

また21世紀になり、モノが溢れ、地球環境が危機的状況を迎え、モノをつくること自体が功罪となり、デザインの価値自体も変化したこともある。今やデザインの役割は、新たな様式を生み出すことではなく、既に存在する様式によって創られた価値に気付き、見直し、再編集し、新しい価値をリ・デザインすることにある。

12 出来事を継承する/様式美の継承

一定期間、何か続いているものがあるのなら、軸を見定め、必要に応じてカタチを変えることで活発化し、文化として継承することに面白味を感じる。継承するためには、需要が続いていたり、事業が継続していたり、何らかの経済活動が継続することが必要でもある。
今の立場なら、正反対の価値観で両立するのが難しく思える、拡大が優先される事業と文化の継承が優先される事業の両方に同時に携わることができるので、名前もお金も残らなくていいから、関係したものが先の世代に一つでも残れば幸せだ、と思う。

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