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昭和歌謡史概説② 通史・後編

第2編では、昭和時代の終わりまでをみていきます。


4. もはや戦後ではない〜高度経済成長期

 1950年代中期〜後期、まだ東京が大都会としてのイメージが薄かった時代には、地方が舞台となる歌が数多く作られました。この時期に歌手デビューした春日八郎三橋美智也の曲が代表的です。
 しかし、54年に集団就職列車の運行が始まると、東京は地方出身者にとって「憧れとなるような、大都会」という街へと変貌していきます。これをよく表している歌謡界の動きをいくつか紹介します。
 1つ目は、これまで地方が舞台で地方の人々が主人公となっていた歌が、同じ地方出身者を主人公としても、東京が舞台となってくることです。例えば、集団就職で上京した若者が、長らく地方暮らしで都会を知らない親を上京させ案内してまわるような歌が増えたのです。島倉千代子東京だョおっ母さん」や三橋美智也「東京見物」が有名でしょう。しかし、このような歌が増えたとはいえ、地方のイメージが完全に失われてしまったわけではないため、地方が舞台の歌と東京が舞台の歌はこの後数年の間は共存することになります。
 2つ目は、「都会調歌謡」の誕生です。これまでは進駐軍の影響で洋楽やそのカバーから数多くのヒットが出ていましたが、そのジャズ・メロディなどを吸収した作曲家・吉田正が地方の歌のイメージとは真逆の、都会向けの歌曲を発表していきます。歌手では、吉田の門下生であったフランク永井松尾和子のような、進駐軍キャンプで洋楽を歌っていた人を中心にヒット曲が連発されます。そしてこの「都会調歌謡」が、60年代中ごろから「ムード歌謡」と呼ばれるようになるのです。
 余談ですが、ムード歌謡は現在では演歌と同じジャンルに仕分けられることが多いと思います。これには次のような理由が関係していると筆者は考えています;
 今では演歌歌手として有名な森進一五木ひろし八代亜紀などの歌手ですが、彼らのデビュー当初(60年代後半~70年代前半)はムード歌謡が全盛の時代でありました。そのため、例えば森進一は、同じビクターのムード歌謡歌手青江三奈とともに「ため息路線」で売り出されました。「演歌」という言葉があまりポピュラーではなかったこの時代(演歌については後述します)、五木の「よこはま・たそがれ」や八代の「なみだ恋」もムード歌謡という扱いであったのです。しかし、時代が進むと、彼らはムード歌謡ではなく演歌を歌うようになり、演歌歌手として扱われるようになったため、演歌の中にムード歌謡が組み込まれてしまったのでした。
 
 また、東京の首都としてのイメージを決定づけた要因の一つとして、58年の東京タワー完成も重要と言えるでしょう。
 
 他にも忘れてはならないことがあります。それは、特にこの頃から顕著となる歌謡曲と映画界との密接な関係です。これは日活から56年にデビューした石原裕次郎の存在なくしては語れません。彼は俳優活動だけではなく、歌手活動も盛んに行い、「銀座の恋の物語」など60〜70年代にかけて数多くのムード歌謡でヒットを連発しました。ヒット曲を映画化しその歌を主題歌としても用いる映画は、50年代後半頃からかなり作られるようになっていたのですが、裕次郎の登場でその流れに一層拍車がかかります。そして、この手の映画は次第に「歌謡映画」と呼ばれるようになり、60年代の日本映画界を席巻していくことになりました。
 
 ちなみに、この50年代後半、レコード盤もこれまでの金属製のSP盤(78回転)からビニール製のEP盤(45回転)・LP盤(33回転)へと変わっていきました。
 
 59年には、歌謡界を大きく左右することになるイベントのひとつ、日本レコード大賞が始まりました。第1回の大賞を受賞したのは、水原弘が歌う「黒い花びら」でした。作詞は永六輔・作曲は中村八大という、現在では名の知れた2人ですが、当時はまだ若手でした。
 また、この頃は安保闘争が起こった時代でもありました。学生活動家の中から死者が出るなど、暗い雰囲気が世間に漂う中、歌謡界でもこれに関連した歌が数多く作られました。上記「黒い花びら」もその一例ですが、この路線でそれに勝るロングヒットとなったのは、西田佐知子の「アカシアの雨がやむとき」や坂本九の「上を向いて歩こう」でした。
 
 加えて、この頃登場し始めた、浪曲と流行歌を合体させた「歌謡浪曲」というジャンルも歌謡史の中で重要です。浪曲師の三波春夫村田英雄、女性では二葉百合子が台頭したこのジャンルは、60年代に隆盛を迎えましたが、前述の歌手らが浪曲を離れ流行歌に特化していったことで70年代以降は大きなヒットはあまり出ませんでした。
 ちなみに、日本初のミリオンセラーとなった歌は、村田英雄が61年に発表した「王将」であると言われています。
 
 60年代前半、テレビが家庭に普及するようになると、若者の間でこれまでになかったような新しい音楽が流行し始めます。俗に青春歌謡学園ソングと呼ばれる歌の登場です。青春歌謡を代表する歌手の橋幸夫・舟木一夫・西郷輝彦の3人は「御三家」と呼ばれ、映画にも出演するなど、今でいうアイドル的存在(「アイドル」という言葉が一般化するのは後の時代の話)となっていきました。しかしこの青春歌謡ブームも、のちのグループ・サウンズの登場などにより長くは続きませんでした。
 アイドル的存在といえば、現在では男性アイドルの代名詞ともなっているジャニーズ事務所がありますが、その初のグループ「ジャニーズ」がデビューしたのも62年でした。
 
 この話題も取り上げておきましょう。現在では演歌などの曲名で「女」という字を「ひと」と読ませるものが非常に多いのですが、その第1号は63年に発表された春日八郎の「長崎の女」でありました。その後は北島三郎の「函館の女」に始まる、いわゆる「女シリーズ」で認知度は高まっていきます。
 
 そして64年、日本初のオリンピックが東京で開催されました。レコード会社各社は五輪開催が決定するとこぞって関連したレコードを発売し、中でも有名な「東京五輪音頭」は三橋美智也三波春夫など、10人以上の競作となりました。
 
 また60年代中ごろには、観光地などを歌った「ご当地ソング」と呼ばれる歌が誕生し始めます。美川憲一の「柳ケ瀬ブルース」を売り出すために関係者がこの言葉を使いだしたことがきっかけである、というのが通説です。
 
 66年、イギリスの人気バンド、ビートルズが来日します。すると日本でもこれに影響されたかのように数々のバンドが登場しました。ジャッキー吉川とブルー・コメッツザ・タイガースといったこれら数々のグループは、「グループ・サウンズ(GS)」と称され、青春歌謡の跡を継ぐかのように若者たちに支持されるようになりました。しかし、その人気も70年頃までには低下していき、解散するグループもあれば、ムード歌謡へと転向したグループもありました。
 
 60年代後半には、作家の五木寛之が「艶歌」という言葉を小説で用いたのを契機に、明治・大正期とは異なる意味で「演歌」という言葉が使われるようになっていきました。「演歌」という言葉には定義が存在しないためどのような音楽なのかを一言で表すことは難しいのですが、演歌師や流しの人たちが歌ってきた、「古くから伝わる日本調のメロディを持つ曲」というような考え方が一般的かと思われます。
 そして五木が小説で示した「艶歌観」と合致した歌手が藤圭子(69年デビュー)でした。彼女を売り出す際に「演歌」という言葉が大々的に使われたため、この言葉は幅広い世代に知られていくこととなります。その後は70年代を通して、現代的な意味での「演歌観」が確立されていきました。
 ちなみに、演歌の題材として頻繫に用いられる「」「北国」「夫婦」などは、70年代後半~80年代にかけて定番化していくことになります。
 
 1970年、大阪で万国博覧会が開催されました。ここでもレコード会社各社は東京五輪の時のように関係した歌を次々に発売しました。最も有名な例は「世界の国からこんにちは」でしょう。
 またこの年から日本歌謡大賞が始まりました。これは、TBSが放送権を独占し続けていた日本レコード大賞に対抗して民放各社が連携して制定したものでした。

5. ジャンルの多様化へ

 70年代に入って、天地真理・南沙織・小柳ルミ子の「新三人娘」や郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎の「新御三家」が登場します。彼らが「アイドル」と呼ばれた第1号であると言えるでしょう。なぜなら71年に、「スター誕生!」というテレビ番組がスタートし、そこから「アイドル」という言葉が流行し始めたためです。
 他にも、幅広いジャンルの歌曲の作家として以後の歌謡界を牽引していくことになる作詞家・阿久悠や作曲家・筒美京平が頭角を現し始めたのもこの時期です。
 
 そして70年代前半の特筆すべき事柄にフォークソングブームの到来があります。60年代終わりごろから高石ともやザ・フォーク・クルセイダーズのようなグループが登場してはいましたが、この流れを決定づけた出来事のひとつは69年に起こった新宿でのフォークゲリラでしょう。65年から始まったベトナム戦争への反対運動が日本にも波及し、若者たちを刺激したのです。加えて、71年の吉田拓郎の登場も大きな要因の一つと言えます。
 
 また、72年の沖縄返還後、70年代の歌謡シーンに新たな風が吹き始めます。多数のシンガーソングライターの登場です。荒井(松任谷)由実中島みゆき、もう少し後の時代では山下達郎などが有名です。彼らの曲は洋楽風な作り方がなされたりと、都会的なイメージのものが多く、これまでの音楽とは異なるとの意味でニューミュージックと呼ばれるようになりました。しかしこの言葉にも定義は存在しないため、分類は曖昧です。そしてこのニューミュージックがさらに発展し、いわゆるシティ・ポップと称されるものになってゆくのです。
 
 70年代半ばからは、女性アイドルがたくさん登場し始めます。山口百恵・桜田淳子・森昌子の「中三トリオ」や、3人組のキャンディーズ、2人組のピンク・レディーなど、数え切れないほどです。加えて、現在ではあたりまえのようになっている歌への振り付けも、この頃から流行し始めました。
 また、アイドルから演歌歌手へ転向した人もいました。例えば今では演歌歌手として有名な石川さゆりは、77年の「津軽海峡・冬景色」の大ヒットで演歌調の曲を歌うようになったのです。
 
 そして78年、はじめて紅白歌合戦のトリがザ・タイガースから独立し人気を誇っていた沢田研二と、山口百恵という若手スターに任されました。それまでは年配の大御所と言われる歌手をトリに起用していたことを考えると、歌謡界のひとつの時代の区切り目といってもよいのではないでしょうか。
 
 また、70年代後半には、GSからのバンド人気の流れをくむようなゴダイゴサザンオールスターズといったバンドが多数出現し、80年代にかけてバンドブームが起こっていきました。
 その中にはロックンロールへと傾倒するバンドも登場し、「歌謡ロック」というジャンルも誕生します。アリスクリスタルキングがその代表的な例です。
 
 79年、細野晴臣・坂本龍一・高橋幸宏の3人が結成したバンドYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)がアルバム「Solid State Survivor」を発表。前年頃から使われ始めるようになったシンセサイザー等の楽器を用いたこのアルバムは、チャート1位を獲得しました。YMOは電子楽器を多用したテクノ歌謡というジャンルを確立させたバンドと言えるでしょう。
 また、この年はソニーから初のウォークマンが発売された年でもあります。音楽を「持ち歩ける」ようになったことは特に若者に大きな影響があったと言えましょう。
 
 80年、70年代を代表するアイドル山口百恵が歌手を引退。すると入れ替わるかのようにして、80年代を代表することになるアイドル松田聖子がデビュー。また男性でも、田原俊彦近藤真彦といったアイドルが続々登場します。
 
 81年のレコード大賞は、寺尾聰の「ルビーの指輪」でした。この受賞は、当時ニューミュージック界がいかに隆盛していたかを物語る出来事と言えるでしょう。
 
 82年には、中森明菜小泉今日子といったアイドルが数多くデビューし、のちに「花の82年組」と称されるまでになりました。この頃から1980年代のアイドルブームが起こっていきます。
特にこの82年頃からアイドルという存在は一時代を築くほどのブームとなっていきます。アイドルにどれほどの人気があったのかはあらゆる情報から読み取ることができますが、ここでは2つの例を挙げておきます。
 1つは、賞レースにおけるアイドルの台頭です。レコード大賞では85年から2年連続で中森明菜が大賞を受賞し、その後もアイドルが大賞を獲得する年が続きました。歌謡大賞も同様で、80年代後半はアイドルが大賞を受賞する年が連続しました。またそれぞれの新人賞を参照すると、80年代はほとんどがアイドル歌手、またはアイドルグループが受賞していることが分かります。それほど数多くのアイドルが誕生し、そして若者らに支持されていたのです。
 2つ目は、「アイドル映画」なるジャンルの登場です。例えば、薬師丸ひろ子の「セーラー服と機関銃」や松田聖子の「野菊の墓」、近藤真彦・中森明菜共演の「愛・旅立ち」などがそれにあたります。彼らのヒット曲を主題歌として用いた映画も存在しますが、これらの映画を製作した意図はアイドルを大画面に映すという点にあったようです。このことから、この時代には、アイドルは単に歌手ということではなく、それ以上のもの、つまり、そこに存在すること自体が重要であったことがわかります。それほどアイドルの人気は凄かったのです。
 
 また世界初のCDが登場したのもこの82年です。日本人初のCDは大瀧詠一の「A Long Vacation」だと言われています。彼がはっぴいえんどなどのグループに在籍したのちの81年に発表されたこのソロアルバムは、翌年にCDでも発売されミリオンセラーとなり、40年以上経過した現在でも根強い人気があります。
 
 アイドルポップスやニューミュージックに押されつつあった演歌ですが、細川たかしが82、83年に「北酒場」と「矢切の渡し」で2年連続レコード大賞受賞、大川栄策の「さざんかの宿」が83年の年間チャート1位を獲得するなど、まだまだその人気は衰えていませんでした。この要因のひとつには、77年に登場したカラオケの流行の影響がありました。当初は主に酒場で流行したカラオケは、演歌を好む中高年層を中心に人気を獲得していきました。若年層がカラオケに親しむようになるのは、カラオケボックスが登場する84年以降のことです。
 また、韓国のトロット(日本統治下の朝鮮へ伝わった日本の音楽が、韓国で独自の発展をした、いわば演歌の韓国版)歌手チョー・ヨンピルが来日すると、彼の代表曲「釜山港へ帰れ」が渥美二郎ほか複数の歌手により大ヒット。これ以来日本でもトロットの人気が出始め、さまざまな歌手がトロットを(主に日本語で)歌ったアルバムなどを発売するようになります。
 しかし、すでにこの時代には、このような演歌ジャンルは若年層からの支持はほとんどなく、それを支えていたのは大半が中高年層でした。そのため80年代のおわりにかけて、演歌は段々と衰退していくことになります。
 
 85年には、テレビ番組からおニャン子クラブというアイドルグループがデビューします。当時アイドルは男女ともに基本的に1人、グループであったとしても多くて3〜4人程度で、10人以上という現代ではあたりまえのようになっている大人数のアイドルグループはこれが初でした。
 のちには、このグループに所属していたアイドルの多くがソロデビューしていきます。その中には、工藤静香のように独立してからも平成時代にかけてヒットを飛ばした人もあれば、城之内早苗のように演歌に転向して成功を収めた人もいました。
 
 88年、世間では青函トンネルや瀬戸大橋が開通した頃、CDの普及とともにレコードの衰退が始まります。次第にシングル盤もこれまでの7インチレコードから8センチCDへと変わっていきました。
 
 また、この頃から90年頃にかけて、段々とアイドルブームも終息に向かっていきます。88年にはWinkというアイドルデュオがデビューし、翌年のレコード大賞を受賞しますが、80年代中ごろに迎えたほどの隆盛とはなりませんでした。
 
 89年、時代の変化を告げるかのように美空ひばりが死去し、元号が平成になると、「ザ・ベストテン」のような音楽番組も放送が終了します。そして、ちょうどこの頃から、演歌の衰退が著しくなる一方で、のちのJ-POP(後述)へとつながるバンドなどの人気が高まり、音楽ジャンル間の人気の差がよりはっきりと表れるようになっていきます。
 それを受けて、90年からはレコード大賞も演歌部門とポップス部門に分けられ、歌謡大賞も93年をもって終了しました。
 
 こうして昭和歌謡史は幕を閉じます。ちなみに、現在では一般化している「J-POP」という言葉は、平成以降、特に90年代になって、ラジオのFM局が「歌謡曲」や「流行歌」という言葉に代わり使い始めたのをきっかけに広まりました。


 次の第3編では、通史には書ききれなかった、日本における洋楽の歴史をみていきます。


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