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【短編小説】「Maybe,I know Her.」

〘 あらすじ 〙

 高校2年生の鈴木奈美のクラスに、アリスという眼帯をつけた女の子が転校してくる。彼女は美しくミステリアスで、周囲と全く打ち解けようとしない。奈美は同じクラスの池田が気になっているが、池田はアリスに惹かれ始めている。日常の中で、奇妙な三角関係が変化していく。
 奈美は最近、自分には「本当の」父親がいることを母親から聞き、心が不安定になっている。「本当の」父親は、自殺したがその原因は母親もわからないという。そのことを保健医の相原に相談するが、そのすぐあとに同じクラスの女子に水をかけられて眼帯を取られたアリスを見つけ、眼帯の下には眼球がなく、窪んだ眼窩のみがあるのを見てしまう。そこで気を失った奈美は、アリスと2人、海辺で月を見ている夢を見る。
 奈美の母親から、アリスの目がないことがある事件と関係があるのではないかと言われ、池田と2人で調べ始める。そして1年前、アリスの親友が恋人からの暴力に悩んでおり、友達を守るためにその恋人に目を抉り取られたことを知る。アリスのことを知っていくうちに、奈美の中にアリスと関わりたいという欲求が芽生え始める。学校を休んでいたアリスの元へ話を聞きに行き、アリスの死んだ父親が奈美の本当の父親だったという真実を知る。
 アリスと奈美は父の自殺の真相を知り、その真実を受け止め、父親の生まれ故郷へ行く。そして奈美が夢で見た海岸へと辿りつく。空にはアリスの失くした片目を象徴する満月がかかっており、2人でそれを見つめ亡くした父親を思い出すことにより、過去が浄化されてゆくのを感じる。

〘 本編 〙

 彼女は美しかった。とても、美しかった。
 窓際の席で、真昼の白い光に照らされながら中庭の噴水を眺めている様は、幼い頃に見た美しい夢のようだった。音楽の時間に遠い国の唄を口ずさむくちびるも、廊下ですれ違う時、そうっとそらす大きな瞳も、長い坂道を下って行く後姿さえ、美しかった。だから彼女はよく目立った。それは、彼女が左目の眼帯を一度もはずしたことがないことを除いても、だ。
 しかしそれが彼女の存在を端的に表現していることは確かだった。

 彼女は5月の終わりという中途半端な時期に転校してきた。クラス替えのない高校だから、2年の5月ともなればグループがきっちりと分かれてしまっている。しかし彼女ははなから私たちと仲良くなろうなどと考えてはいないようだった。おせっかいで親切な何人かが、彼女を自分たちの輪にご招待しようと誘ったけど、彼女はそれを拒否した。当然いじめの対象となった。いじめる側はさまざまな噂・・・例えば転校の原因は子供を堕ろしたからとか、クスリの常習者だったからとか、何かの仲介をやっていたからとか、ガラス一枚隔てたところにあるリアルな話題・・・を流した。効果があればやりがいもあっただろうけど、初めから無視を望んでいた彼女には好都合だった、ように見えた。しかし、無視するには彼女の存在感は強すぎた。

 彼女のことを話題にするのは、もっぱら学校を出てからだった。ルミたちが言ってた噂ほんとかな、とか目にケガしているのかな、とか髪の毛長いよね、とかその程度のことだ。彼女の話をする時、なぜかみんなで秘密を共有しているような気になった。それはノリちゃんもミコも感じていたと思う。マックで薄まったコーラを飲みながら、3人で肩を寄せ合って答えの出ない可愛い問いを繰り返した。

 私は彼女の体が発する青い炎が見えるような気がした。赤よりも温度の高い、怒りと悲しみの青が、でもとても美しいと思った。

 こんなことがあった。家庭科の調理実習で、私は彼女と一緒のグループになった。実習のメンバーは毎回変わり、それは出席番号によって機械的に決められていた。先生から調理手順や注意事項の説明を受けたあと、まな板やボウルを洗うところから始まる。彼女が転校してきてから初めての実習だった。私たちと話すことはなかったが、自分の役割を黙々とこなした。私はそれをとても意外に思った。

 彼女は1つずつ丁寧に調理器具を洗い、布巾で拭いた。玉葱の皮をむく時もトマトのへたを取る時も、ことさらゆっくり手を動かした。それでも誰もがイライラすることはなく、逆に全てはスムーズに進んだ。

 彼女は体つきにあった細く白い手をしていた。時々男の子たちが彼女を盗むように見ていた。グループはほとんど誰も喋らず、私は教室からぽっかり浮いているような、別空間で手を動かしているような気分になった。周囲のお喋りが遠いところに置いてあるテレビの雑音のように聞こえた。でも、異様に楽しいと思った。奇妙な連帯感さえ感じた。

 しかしその静寂と均衡は長くは続かなかった。やけに静かなのを冷やかしに来た他のグループの男の子が、野菜を切っていた男の子の頬に突然氷を当てたのだ。男の子は驚いて持っていた包丁を落とした。包丁は隣にいた彼女の左腕を掠めて床へ転がった。彼女は、アッ、と小さく鋭い悲鳴を上げ、そのままの体制で後部へ倒れた。直接床へ叩きつけられることはなかったものの、彼女は気を失っていた。すぐに内線で呼ばれた男の先生が彼女を医務室へと連れて行った。実習は中止になり、ふざけた男の子が職員室に呼び出された。後片付けをしながら、他のグループからの質問攻撃に曖昧に返事をした。

 昼休みに、故意にではないにしろ包丁を落としてしまった男の子、池田君がとても気にしていたので、一緒に医務室へ様子を見に行った。池田君はわりとものをハッキリ言う人で、みんなが言いたくても言えないようなことをサラリと、多分無意識に言ってしまって、その場の雰囲気を凍らせてしまうことがある。いつもはボーっとしているくせに、時々そのナイフみたいな冷たい言葉で私のやわな肌を突き刺すんだ。
 傷口から流れ出た赤い血で、私は我に返る。ヤバイ、今目ぇ開けて寝てたわって。池田君のそういうところが、私は結構気に入っていた。

「今日の実習さ、変だったよな。」

 廊下を歩きながら池田君は言った。時々人をよけながら。

「うん、何だったんだろうね、あれは。」

「楢崎がいたからだろう。みんなヤバイくらい集中してた。実習って雰囲気じゃなかった。それがビシビシ伝わってきて、妙に興奮した。」

「でもなんか、懐かしい集中力だった。」

「あー、それわかるわかる。ガキん時、時間がたつの忘れてやった、めっちゃ範囲の広いかくれんぼとか、カエル捕まえて尻に爆竹詰めてた時とかの感じ。」

「カレーとサラダ、作ってただけだったのにね。」

「そうだな、途中で止まったけど、あのまま続けてたらすげーカレーが出来たと思う。」

「二度と作れないようなのがね。」

「でもそれを台無しにしたのは俺だ。楢崎を大いに驚かせてしまった。悪いことをした。」

「悪いのは田中じゃん。」

「刃物を手から離すなんて、基本的に俺の不注意だよ。」

 こういう妙にまじめなところも好きだ。頭1つ分でかい池田君の横顔を見た。真剣な、そしてどこまでもクールな目だ。この人を、本当に好きになるかもしれないと、心の隅で思った。

 ドアを開けると、医務の相原が長いすに寝転がって新聞を読んでいる姿が目に入った。無駄に背がでかいから、足が思いっきりはみだしている。相原は男だ。多分30代前半、妻子なし。どう見ても医務室に入り浸ってるヤンキーだ。第一白衣が似合わない。ボサボサの髪に無精ひげ、白衣はヨレヨレで薄汚れているし、その下から黒いジャージが見えている。生徒を指導する前にこっちが先だろ、って多分みんな思ってる。

「よぉ池田に益田。」

「・・・鈴木ですけど。」

「悪ぃ悪ぃ、で何。あーさてはお前、初潮?」

「初潮は中3です。」

「じゃあ池田の子供でもできたか?」

 池田君はツカツカと先生に歩み寄り、髪の毛の匂いをかいだ。

「先生、またそこのベランダでタバコ吸ったでしょ。校内は禁煙ですよ。」

「何だよかてーこと言うなよ池田ァ。」

「ところで先生、楢崎は。」

「そこで寝てるよ。だからでっけー声出すな。」

 それはこっちのセリフだ、って池田君言わなかった。だから私が、じゃあまたあとで来よう、と言おうとしたのに、池田君は先生に向かって行ったのと同じ歩幅でベッドに近づき、白いカーテンを引き開けた。

「楢崎、起きてるか。」

 慌てて池田君の腕を引っ張りに行った。こういう自分勝手なところはちょっとやだな。でも、ちょっとだけ。

 ベッドを見ると、彼女は仰向けのまま、私たちをその黒い大きな右目で見上げていた。

「楢崎、さっきはごめん。俺のせいで危ない目にあわせて悪かった。」

 池田君はきっぱりとそう言って頭を下げた。私は池田君と彼女を交互に見た。

「悪気がないのはわかってる。頭上げて。」

 彼女はゆっくりと起き上がった。そして私の方を向いた。長い髪の毛がサラリと胸に流れた。黙ったまま、右目で私を、彼女は見た。長い長い数秒間だった。そして彼女はいつものように、静かに目をそらした。

「先生、帰っていい?」

「送ってやっから職員玄関にいろ。お前ら突っ立ってねーで楢崎のカバン持って来い。」

 彼女の薄いカバンを持って階下に下りると、すでに2人は車に乗り込んでいた。

 カバンを渡す時、微かに触れた手は微熱を帯びていた。彼女の右目は、燃え堕ちていく星のようだと思った。

 それから私たちは、なんとなく教室に帰れなくなって、鍵の壊れている屋上へ行った。グラウンドで体育をやってる人たちに見つからないように、扉のすぐ横の壁ぎわに並んで座った。17歳らしい距離を置いて。

「楢崎さんと相原、妙に親しげだったよな。」

 薄い雲間からやけに眩しい太陽が顔を出した。私を射殺してしまいそうな、強くてまっすぐな光だ。さっきの彼女の目を思い出したけど、違う、と思った。時折吹き抜けていく風には、夏の始まりに良く匂う、淡い花の香りが混じっていた。私は目を閉じた。

「聞いてんのか?」

「聞いてる。池田君はどう思う?彼女のこと。」

「彼女って楢崎のことか?」

 目を閉じたままうなずいた。目を閉じていても、太陽が雲の中に隠れる様が感じ取れた。それは映画のようにまぶたの裏に鮮明に映った。今起こっている何もかもが、過去のことのように思える。

「気になんない奴はいないだろ。眼帯、目立つし。」

 そう言って池田君は黙った。今の自分の発言について、何か考えているようだった。そして、

「俺は、楢崎を好きになるような気がする。でもそれは・・・とても困るな。」

 それは私も困るな。けれど、急に眠気が襲ってきて、何かを言うことがとても面倒に思った。

「オイ寝るな鈴木。あと10分もしたら授業終わるぞ。」

 このままここで眠ってしまいたいとぼんやり思った。不意に、まぶたの裏の光が遮られ、くちびるに生暖かいものが触れた。目を開けると、池田君が私を、初めて会った人のような目で見ていた。

「起きたか。」

 池田君は無表情のまま言った。

「起きた。」

 池田君が何を思ってそうしたのかさっぱりわからなかった。私は目を閉じていたけど、野良猫がいたから餌をあげてみた、花が咲いていたから匂いをかいでみた。そんな仕草に思えた。仕方なく、池田君に続いて立ち上がった。スカートを払って池田君を見ると、まださっきの続きを考えているようだった。だから、

「私も、これから池田君を好きになるような気がする。そしたら、困る?」

 と言ってみた。池田君はじっと私の顔を見つめた。池田君の白いベストが眩しくて目を細めた。グラウンドから、土ぼこりの立つ音と、高い笛の音が聞こえた。不思議と、人の声は聞こえなかった。

「困るだろうな、多分。」

「でもその時はその時で困ったりすればいいんじゃない?時間はあるし。」

「それもそうだな。」

 屋上の扉を閉めると、目の前に広がるのは地下世界のようだった。階段に、2人分の足音が響く。最奥へ永遠にたどり着けなくても、私たちはきっと気づかないと思う。時間も言葉も思考も体も、果てしなくループしていく。

「入梅だな、もうすぐ。」

「長いよねえ、梅雨は。あとで考えると夏の前のワンクールなのに、梅雨の間はすごく長く感じる。」

「そうだな、永遠に終わらない気さえする。」

 一段下りるたびに気温が下がっていく。鉄の手すりが手の平から体の奥にそれを伝える。私たちは、これからどうなっていくんだろう。不安だけど、甘い感じ。眠る直前の、甘くて自由な感じ。

 背後で、雨の降り出す微かな音がした。池田君はまだ気付いていない。彼女は気付いているのだろうか。この、世界を覆っていくような雨音を。全ての音を吸収して、時のように降り去ってしまう雨音を。

 こんなことがあった。関東が入梅した翌週の午後だった。ずっと楽しみにしていた漫画の発売日で、放課後まで待ちきれなくて学校を早退した。

 駅前の小さな本屋で念願の漫画を買い、バス停のベンチで読んだ。バスが来る前に読み終わってしまって、家に帰ってベッドの中で紅茶を飲みながらもう一度読もう、とうっとりと思った。

 顔を上げると、人通りのない道路を黒い傘をさした女子高生が渡ってくるのが目に入った。私と同じ制服。ゆるく波立つ長い髪。スロウモーションのように、雨粒が大きな傘に落ちて流れていくのさえ、見えた。

 彼女はゆっくりと傘をたたみ、私の隣に座った。体の感覚が麻痺したみたいに動けなかった。何だろう、緊張でもない、驚きでもない、そんな普通の感情じゃない。

「バス、来たよ。」

 彼女が私の耳元にそう囁くまで、違う空間にいた気がした。慌てて立ち上がって定期を出そうとしたら、今買った漫画がカバンの中から転がり出た。彼女がそれを拾ってくれて、何とかバスに乗れた。

 バスは予想通りすいていた。とても静かで、寂しいくらいだった。私は一番後ろの4人掛けの席に座った。彼女は私の隣に座った。全てが自然なことのようにも、不自然なことのようにも思えた。

 毎日同じ商店や病院の宣伝文と停車場所のアナウンス。同じ搖れ方、同じ窓枠。奇妙に明るい雨空。彼女の美しい横顔。私は彼女の左目の眼帯を見つめた。その中はどうなっているのだろうとぼんやり思った。

「さっきの漫画、読んでいい?」

 彼女は突然そう言って私の顔を見た。慌てて目をそらして、バッグの中をごちゃごちゃにかき混ぜながら漫画を取り出し、渡した。彼女はそれを窓枠にもたれながら読み始めた。ページをめくるたびに、長い髪の毛がサラサラとこぼれた。調理実習の時に盗み見た白い手が、今日は随分近くにある。彼女は時折くすくす笑った。赤毛のアンとか、不思議の国のアリスとかそういった類の笑い方だった。

 窓の外を、車が水煙を上げながら通り過ぎた。

 家に帰りたくないな、と今更思った。多分、誰もいないだろう。でも、いてもいなくても、帰りたくない。

 あのことがわかったのは、半月くらい前の金曜の夜だ。次の日にノリちゃんとミコと買い物に行く約束をしていた。着ていこうと決めていた水色のシャツがどこにも見当たらなくて、部屋中を探した。洗濯カゴや弟のクローゼットの中も見た。そして最後にお母さんのタンスの前に辿りついた。開けるのは初めてだった。

 お母さんはキッチンで洗い物をしていて、お父さんは寝転がりながらテレビを見ていて、弟は自分の部屋でスマホゲームをしている。いつもと何も変わらない日常・・・の中にまだ私は立っていた。

 微かな樟脳の匂い。お母さんの着なくなった派手なスカート、亡くなったおばあちゃんの着物、私か弟の産着。ここにはない。すぐにわかったのに、一段一段引き開けていく手を止められなかった。誰かに操作されているみたいに、入っている服をめくった。

 1番下のひきだしの隅に、それはあった。帯紐や足袋や薄手の手袋にまぎれて、忘れ去られたように、あった。私はその色褪せた母子手帳を手に取った。表紙には私の名前とお母さんの名前、そして「大森」という、お母さんの旧姓でもなく、親戚にも聞かない苗字が、私とお母さんの名前の横に記されていた。

「何してるの。」

 お母さんが私を見下ろしている。何か言う前に、お母さんは私の手の中の物を見つけた。

「見た?」

「見た。」

 沈黙が下りた。もう戻れない何かが私たちの間に大きな川となって流れ始めた。仕方ないわね、と私の目を見ながら言ってお母さんは背後のドアを閉めた。

「あなたが成人したら話そうと思ってた。」

 私が聞きたいも聞きたくないも何も言わないのに、それが当然のことであるようにお母さんは話し始めた。私は妙に冷静な気持ちで、心の中を空洞にするよう努めた。そしてその中にお母さんの言葉を少しずつ沈めた。

「そこに書いてある苗字は、あなたの本当のお父さんの苗字。エンジニアで背が高くて痩せていて神経質で、あまり笑わないような人だった。プライドが高かったのね、多分。」

 今のお父さんとは正反対の人だ、と思った。でも可愛らしいところがあってね、そこがとても好きになってしまったの。とお母さんはちょっと笑って言った。

「この続き、聞きたい?」

「一応、聞く。」

「彼ね、雷を怖がってたの。まだ付き合ってもいない頃、私たちは同じ会社で、私は事務の仕事をしていた。あの人とは部署が違ったから、ほとんど喋ったことなかったわ。忘年会や社員旅行にも大体いなかったから、たまに社内ですれ違うくらい。でもある日、偶然退社時刻が重なったの。勤務形態も違うし、本当はあり得ないことだったんだけどね。それで会社の通用口で、途中まで一緒に、って言おうとしたらあの人は足早に出て行ってしまった。私のこと、嫌いなのかなって思った。

 外へ出ると、雨の降りそうな重い空だった。帰る方向が同じだったから、仕方なくあの人の遠くなっていく背中を見ながら歩いたわ。しばらくしたら、急に黒い雲がもくもく湧いてきて、遠くで雷鳴がとどろいた。音が、どんどん近くなっていく、」

 私はお母さんの目を見た。知らない人みたいに見えた。私のことなんか見えてないみたいに、ひとり言みたいに聞こえた。どこにいるんだろう、私たちは。

「真上でピカって光ったの。そのあとドーンって。あの人が私の方を振り返って走ってきた。そして突然私の手を握って、家は近いのかって言うの。すぐそこよって言ったら、送って行くよ、って震えながら言うの。おかしかったわ。笑い出しそうになるのを必死でこらえて部屋に入れた。それから雷がやむまでいろんな話をしたのよ。あの人が言うから電気も消してコンセントも全て抜いて、停電もしていないのに蝋燭つけて。楽しかったなあ。このまま雷がとどまってくれればいいのにって本気で思った。はい、ここまでがなれそめ。」

「それで?結婚したんでしょ?」

「妊娠したのがわかって、急いで籍だけ入れたの。あの人の両親にさえ会ったことないわ。そもそも勘当同然で出てきたらしいから、あの人からも家のことは聞いたことなかった。それに、あなたが生まれてからすぐ、あの人、死んじゃったのよ。」

「何で、」

「自殺。」

「・・・自殺?」

「多分。」

「多分?」

「遺書も何もなかったの。原因もわからない。だって私たち、幸せだったから。」

 お母さんはそこで少し黙って空を見つめた。そこに誰かがいるみたいに。私はと言えば、まだドラマのあらすじを聞かされている気分にしかならなかった。嘘だよ、って言われれば、そうなんだ、ってまだ、言える気がした。

「会社を通してあの人の両親に連絡したら、代理人だって人が勝手にあの人の遺体を運んでいっちゃった。私、情けないことに何もできなかったのよ。小さなあなたを抱えて右往左往してただけ。もう亡くなったけど、おじいちゃんとおばあちゃんは怒ってあの人の両親のところへ行った。でも、門前払いされたって。それから親戚の中でもその話はタブーになった。」

「全然知らなかった。」

「当たり前よ。小さいあなたにどうやって説明するのよ。」

「じゃあ智紀は?」

「あの子はパパの連れ子。あの子も何も知らないわ。」

「よく似てるって言われるのに。」

「あの子の母親はあの子を産んですぐに亡くなったの。私の親友だった人よ。」

「親友の旦那と再婚ね・・・。」

「あの子には黙ってなさいよ。こうやって自然にわかる時が来るんだから。」

「おーい奈美、テレビにYoutubeうつしてくれよう。」

 リビングからお父さんの声。どうしてだろう、今までと同じに聞こえない。血のつながりがない、それだけなのに、それがわかっただけなのに、どうしてだろう?

「ほら、もう行きなさい。」

 お母さんに促されて、ようやく立ち上がった。

「前も教えたじゃん。」

 言いながら、でもお父さんの目が見られなかった。


「おもしろかった、これ。」

「ああ、あ、そう?そんなに?」

「うん・・・驚かせた?」

 彼女が不安そうに私を見た。

「ごめん、いろいろ思い出してただけ。」

「そう。ねえこれ一巻からある?読みたい。」

「いいよ、うち来る?」

 彼女はなぜか脅えたようにうなずいた。何か怖がらせるようなことを言ってしまったかな、と今の会話を頭の中で反芻した。

「私んち、区民ホールの近くのマンション。楢崎さんちは?」

「区民ホールの近くの神社の横。」

「へえ近いね。今日はどうして早退したの?」

「何となく。」

「何となく?でも漫画読みたさにサボる私よりはましか。」

 年下の子と話してる感じで言葉を選んだ。誤解されないよう、傷つけないよう、無意識に注意していた気がする。窓の外は相変わらず雨が降り続いている。去年と同じように、早く梅雨が明けないかな、と思った。

「楢崎さん、早く早く。」

「どうして急ぐの?」

「近所のおばさんに見つかると母親に報告されちゃうんだよ。あ、5階ね。」

 急いで暗証番号を入力してマンションの中に入り、郵便受けも見ずに走ってエレベーターの中へ。玄関で鍵を探していると、彼女が私の服の裾をひっぱった。

「誰か来た。」

「どんな人?」

「パーマかかってる。ずんぐりむっくりで白いエプロン。」

「やだ、吉田のおばちゃんだわっ、あっ鍵あった入ってっ。」

 ぐいぐい彼女の腕を引っ張って家の中に押し込み、そうっと鍵を閉めて彼女から手を離した。

「ごめん、痛かった?」

 彼女はほんの少し冷めた顔色で、私を見て首を振った。

「おばちゃん、こっち見てた?」

「見てない。スズメ見てた。」

「よかったー。吉田のおばちゃん、スズメに名前つけて餌やってんの。」

 彼女は心底感心したように私を見た。

「スズメ、何て名前?」

「確かタマとかトラとかそんなの。」

 彼女は笑った。私は彼女の桃色に染まった頬を惚けたように見てしまった。その笑顔は、綺麗な銀色の、鈴のようだと思った。

「上がって?お父さんは仕事で弟は学校。お母さんは6時過ぎにパートから帰ってくる。」

 お邪魔します、とそれでも小さな声で言って、彼女は靴を脱いだ。部屋に案内してキッチンへ入ってから、飲み物は何がいいか聞きに戻ると、彼女は突っ立ったまま部屋を見渡していた。

「その辺に座ってて?漫画は後ろの本棚にあるから勝手に見ていいよ。あ、コーヒーと紅茶とオレンジジュースどれがいい?」

 彼女は右手をくちびるを当てながら暫く考えて、紅茶、と言って私を覗き込むように見た。なんだか、ありがとう。と言いそうになってしまった。そしてごめんねって。どうしてだろう。どうしてなんだろう。

 冷蔵庫の中にあったおみやげのベルギーチョコと、2人分のアイスティーをお盆に載せて部屋に戻った。彼女はちょこんと正座して漫画を読んでいた。

「足崩して?はい、シロップとレモンは好きに入れてね。」

 彼女は読んでいた漫画を開いたまま置いて、私が指示を出した通りに足を崩し、アイスティーにシロップ1個とレモンの輪切りを入れ、ぎこちなくストローでまぜた。

「このチョコね、お父さんのベルギーみやげなの。私も初めて食べる。あ、結構美味しい。日本のチョコとやっぱり違うね。」

 彼女じゃなかったら、転校の理由とか、眼帯のわけとか、聞けたかもしれない。きっとその答えに予想がつくからだ。でも彼女は私の予想できない理由がある。それが予想できるから、私は聞かない。

「漫画、よく読む?」

「あんまり読まない。」

「学校休みの時、何してるの?」

「小説読んだり、散歩する。」

 彼女じゃなかったら、今度遊ぼうって、家に行ってもいい?って、小説貸してって、言える。でも、彼女は私の申し出に困惑してしまう。いいともダメとも言えない。・・・この予想は本当に合っているのだろうか?

 雨は降り続いていた。黙ると、音は全て雨音に変わった。途方もないような気分で、漫画を読む彼女を見つめた。彼女のまつげは黒く長く、視線が動くたびに揺れた。美しい彼女を間近で見ていられることを、奇跡のようだと思った。この空間を全て記録して、またいつか眺めることができたならいいのにと、漫画を読むふりをしながら思った。


 珍しく晴れた日曜日、男女メンバーで映画を見に行った。グループデートってほど色めきたつ集いではない。ノリちゃんと吉田君カップルの別れ話を食い止めよう作戦+付き合いたてのミコと田中に何らかの進展を作戦の合同体だ。ノリちゃんが言い出して、近くにいた私も何の目的もないものの参加させていただいた。奈美もね、ってミコが池田君を誘ってくれた。ミコはかなりスルドイ。

 駅に集まって歩き出したものの、結局女と男で別れてしまうのが、多分若さというもの。とりあえず昼飯、ってことになってファミレスに入った。こじゃれた名前のスパゲッティを食べながら、田中の得意な担任の物真似を見、次の試験範囲の予想をし、いろんな噂話をして笑い合った。学校にいる時と話の内容は変わらないのに、私服ってだけでテンションが上がるのはどうしてだろう。みんな、田中の似てない物真似で死にそうになってた。

 映画館に入ってからは、状況判断が冷静に出来る私と池田君で無理矢理組み分けし、なるべく離れて座るように取り計らった。その結果私と池田君も2人きりになったわけだけど、ノリちゃんもミコも私たちがキスしたことを知らない。池田君もすっかり忘れたみたいに私に接する。つまんない、と思った。

 映画はハリウッド映画にありがちなアメリカ万歳家族万歳のラブコメディで、私はげらげら笑いながら見てたけど、隣の池田君は小さないびきをかきながら眠りこけていた。いやいやついてきたのかな、ってまた少し淋しくなった。

 映画館を出ると2組とも何かしら進展があったらしく、別行動をしようということになった。また明日ね。夜に連絡するねって言い合って別れた。池田君を振り返ると、まだ寝ぼけているようで、死にかけの魚みたいな目でビルボードに見入っていた。

「どうする?これから。」

「とりあえず・・・ここにいると通行人の邪魔になるから移動。」

「眠かったら帰る?」

「家帰っても兄貴の友達が来ててうるせーからなー。何か用事ある?買い物とか。」

「ない。池田君は?」

 優しさを装って聞いた。誰にむけていいかわからない嫉妬心に、頭の中が支配されてしまう、その前に。

「付き合う気、ある?俺の買い物に。」

 人をよけるために前だけ向いて歩いてた。池田君が私を見た気配がした。それだけで嬉しくなってしまう私は、リアルに恋しているらしい。単純だけど面倒臭い恋にまた、落ちてしまった。そんなことを思いながらうなずいた。

「じゃあためていた買い物を、今日は一気に済ますことにする。」

 池田君は力強く言った。しかし、『ためていた買い物』は予想以上にたくさんあった。洋楽のレコード(!)3枚、参考書5冊、Tシャツ2枚、靴下5足、折り畳み傘、電池、マスク、ノート5冊組、最後には量販店でミニ冷蔵庫まで買って配送してもらってた。

「な?」

「何が、な?ためすぎでしょ。」

 男の子らしく決めるのは早かったけど、何にせよ、歩き回った。夕方近くになってやっと駅ビル1階のカフェに入った。足元には大きな紙袋が2つ置かれた。

「最後に新宿まで出てきたの1年前だもん」

「近所で買えるじゃん。」

「こっちのが安いし、まとめて買った方が早い。今日はチャンスがあるかもって思って、金を大目に持ってきといて正解だった。」

「持って帰るの大変でしょ。」

「仕方ない。でも鈴木がいてくれて助かった。おかげでいい傘が買えた。」

 それだけかよ、と心の中で毒づきつつ、カフェモカの甘苦い味を飲み込んだ。

「日曜ってこの時間、下り混むの?」

「混むよ。荷物、網棚に置きなよ?」

「いいアドバイスありがとう。お、雨だ。」

 大きな窓ガラスを雨滴がツ、ツ、と打った。しだいにその数が増え、比例して道行く人々が早足になっていく。傘買っといてよかったね、と言おうとしてやめた。窓の外を見知った顔が横切ったからだ。

「池田君、楢崎さんと・・・相原!」

 何、と言って池田君が窓に顔を押し付けた。背の高い相原と、眼帯の彼女はよく目立った。まるで二人の周りにだけ太陽光があたっているみたいに、濃く鮮明に見えた。

「こんな真昼間に堂々と。」

 池田君は2人が通り過ぎてからも、窓に顔を向けたままいた。私は池田君の横顔を見た。きれいなカーブを描く顎の線や、耳にかかる柔らかそうな髪の毛、動かない目線、今彼を形作る何もかもを目に焼き付けたかった。そしてその時私は知った。もう何かがゆっくりと動き出してしまったことを。


「昨日見かけたよ。」

 放課後、誰もいないところを見計らって保健室に入った。私の言葉に、相原は何の感情も示さなかった。

「予想できるでしょ、こういうこと。」

 私が言うと、相原は座れ、と言って勝手に持ち込んだらしい冷蔵庫からウーロン茶のペットボトルを出して放ってきた。

「安い口止め料。」

「嫌なら飲むな。」

 空っぽの胃に、冷たい液体がしみこんで体全体に広がっていく。

去年相原が来てから、やたらと物が多くなった。パソコン、小さな本棚、壁に掛けられた海の絵、ラジオに姿見まである。

「ここで寝泊りしているんですか?」

「してねーよ。居心地良くなっただろ。」

「別に・・・よくなったのは先生の居心地でしょ。掃除する人が大変じゃん。」

「で、何が言いてーの。」

 相原は、私が座っている長いすの背もたれに座ってコーヒーを飲んでいる。いつもより距離が近い。その視線の先には、誰もいない雨のグラウンド。聞こえてくるのは水槽の浄水装置のかすかな音だけ。

「昨日、どこ行ったの。」

「お前に関係ねーだろーがよ。」

「どうして楢崎さんと?」

 相原と視線が合った。マグカップから薄い湯気が立ち昇っている。

「病院に付き添っただけだ。お前が期待しているようなことは何もねえよ。残念だったな。」

 少しの沈黙のあと、相原はコーヒーを飲み干し、カップを流し台に置いた。

「楢崎さんの目、そんなに悪いの?どうして眼帯、ずっとしたままなの?」

「そんなこと、直接聞きゃーいいだろ。」

 相原は私に背を向けてカップを洗っている。心の中が、風に揺れる木立みたいにざわざわ鳴った。

「でも、彼女が、楢崎さんが私が聞いたことで怒ったり悲しくなったり嫌な気分になったりしない?」

 相原は私の正面に座り直し、黙って私の顔を見ていた。

「言いたくなかったら言わないよ、あいつは。お前んち行ったんだろ?」

「一緒に漫画読んだ。でも、それだけだよ。」

「上出来。それより、お前今日何か変だぞ?わざわざそんなこと言いに来るなんてよ。何か悩んでることあるんじゃねえの。聞いてやるから言ってみろ。」

 私は相原の目を見た。そして私はお母さんから聞いたことをすっかり話してしまった。その目が、何もかもを受け止めてくれそうに思えたからだ。話しながら、ずっと誰かに言いたかったんだと気付いた。理解して欲しいとか、聞いて欲しいとかじゃなくて、ただ言いたかったんだって。私の中でぐるぐる回り続けるものを、外に吐き出したかったんだ。

「お前、それ聞いてどう思った。」

「驚いた。普通にお父さんの目、見られなくなった。何も、何も変わってないのに。」

「お前がそうやって混乱することがわかっていたから母親も話さなかったんだろ。でもな、何も知らない幸せと、知った上での幸せとでは、全然価値が違ってくるんだぞ。覚えとけ。」

 それだけ言うと、相原は立ち上がって、私の前に置いてあった空になったペットボトルを取り上げた。そしてついでのように私の顔を覗き込んだ。

「もう知っちまったんだ。後戻りはできねえぞ。わかったか。」

 反論しようと、何か言い返そうとしてやめた。意地を張る意味なんて、今はない。

「わかった。」

 相原は姿勢を起こしてペットボトルをゴミ箱へ放った。

「わかったらガキはもう帰れ。俺ぁ会議だ。」

 そう言って、相原は髪の毛をボリボリかきながら保健室から出て行った。しばらくの間、雨ばかり落ちてくるグラウンドを見つめた。

「鈴木、」

 反射的に声のした方を向いた。池田君が立っていた。今は会いたくなかった。

「相原なら職員室。これから会議だって。」

「さっき廊下で会った。」

 池田君はドアを大きく開けた。

「帰ろうぜ。」

 断る理由もなく、鞄を持って立ち上がった。下駄箱につくまで、池田君のすっと伸びた背筋を見つめながら歩いた。池田君は、どうして保健室に来たのだろう?

「それは昨日の。」

「そ、鈴木が選んだ傘。」

 池田君はマドラスチェックの折りたたみ傘を2回、肩の辺りで上げ下げした。傘が喋ったみたいに見えた。新しい傘は水をよくはじく。池田君が傘を振った拍子に、私の首筋に水滴が飛んだ。ごめん、と言って池田君の手が私の首筋に触れた。それだけの、日常的な動作の範囲内の仕草なのに、私の胸は一気にかき乱された。
 その時、体中の機能が眠りから目覚めるように動き出すのを、確かに感じた。鼓動が急激に早くなって息が苦しくなる。自分の傘を持つ手が微かに震える。そして触れられた場所が密やかに熱を持った。

 やめてよ冷たいじゃんって、言えない。言えないよ、どうしよう。代わりに、どうしようって、口から出そうになる。池田君が不思議そうに私を見てる。なのに、声が出ない。助けて、苦しい。何で何も言えないのって、思うのにどうしようもない。恥ずかしいって、思えば思うほど、何か言わなきゃって思えば思うほど。キスした時はこんなふうになんなかった。
 熱い水分が狭い血管を矢のように巡ってる。体の中も外も全て、私は池田君を欲している。だから、だから苦しい。

「鈴木?」

 池田君が困った顔をして私を見つめている。

「どうした?」

「ごめん、忘れ物した。先、帰ってて。」

 池田君の声を背後で聞いた。だけど、走って校舎の中に舞い戻った。混乱したまま、ローファーを投げ捨てるように脱いで階段を駆け上がった。開いたままの傘が手すりにぶつかって水滴を飛ばした。

 何を焦っているのだろう?何に追われているのだろう?

 階段を登りながら傘をたたんだ。上履きさえはいていないことに気付いた。急に靴下の裏に冷たさが戻ってくる。それでも一段一段上って行く。心臓が冷えてだんだん遅くなる。  

 深い深いため息をついた。階段が終わって、諦めにも似た気持ちで上を向いた。その時、耳を切り裂くような鋭い悲鳴を聞いた。間をおかずに、二人のクラスメートが青ざめた顔をして走ってきた。ルミとトモミだ。2人は私に目もくれずに階段を駆け下りていった。

 その必死の形相に、呆気に取られるよりも寒気のようなものを感じて、2人が走ってきた方向を見た。そこは私がいつも使っている、2年の女子トイレだった。

 白いドアを押し開ける。目の前には誰もいない。そして個室の並ぶ左側を向くと、彼女が私に背を向けて座り込んでいた。ぺったりと膝をつき、微動だにしない。長い髪の毛が、ピンクのタイルの床に垂れている。2人に水でもかけられたのだろう、髪やシャツから水滴が滴り落ち、体にぴったりはりついている。

「楢崎さん?」

 声を掛けてから気付いた。彼女の小さな眼帯が、私の足元に落ちていることを。彼女がゆっくりと、機械人形のようにぎこちなく私の方を向いた。私は確かに、彼女の左目の部分を見た。そこで、意識を失った。


 夢を見た。大きな満月が煌々と照っていた。そこは私の知らない海岸で、足元には月見草が揺れていた。闇の中にぽっかり開いた金色の穴のように、月が輝いていた。

 聞こえるのは波音。繰り返す波音。触れるのは風。生暖かい夏の風だ。

 波の上に月光の雫が揺れているのを、ただ見つめていた。隣には彼女がいた。影のようにひっそりと。私はその存在を強く意識した。ふと横を向くと、彼女はいなくなっていた。辺りを見渡すと、彼女は波打ち際までたどり着いていた。私は駆けた。不思議に少しも息は切れず、ただ彼女の長い髪と細い腕を見ていた。

 彼女はもう首まで海の中に浸かっている。私は急いだ。走りながら、行ってはだめ、そこへ行ってはだめ、と叫んだ。叫んだのに、彼女はもう波の彼方に消えていた。

 何かに引き戻されるように目が覚めた。目の前は白い、白い世界。全身、特に後頭部に痛みを感じた。体を起こしながらそこに手を持っていくと包帯が巻かれていた。見たことのある黄ばんだカーテンが音もなく開いた。相原だった。

「気付いたか。」

 相原は感情を極度に押し殺したような目をして立っていた。この人のこんな顔を、私は見たことがない。

「覚えてるか。」

「え、と、ルミたちが駆けて来て、女子トイレの中に楢崎さんがいて、」

「お前はそこで気絶した。運が良かったんだぞ。雑巾のたっぷり入ったバケツに後ろ頭つっこんで、そのふちで頭切っただけだったんだからな。バケツがなかったら脳震盪だけじゃすまねえぞ。」

「そっか・・・あ、楢崎さんは?」

「もう送っていった。お前見たのか、あいつの、」

「見たと思う。多分。でもよく覚えてない。」

「何もないんだよ、あいつの左目は。空洞だ。」

 その一言で、一気に記憶がフラッシュバックした。振り返った彼女の左目、左目のあるはずの位置には、ぽっかりと黒く穴が開いていた。あるべきはずの眼球が、なかった。

「生まれた時からなの、」

「違うよ、取られたんだよ。」

 だから相原は彼女の傍にいたんだ、と今更ながら気付く。

「送っていくか?」

「いい、平気。」

 校門を出ると、辺りには闇が充満していた。幸い雨はやんでいたから、急ぎ足でバス停へ向かった。何かに急き立てられるように。

 マンションのドアを開けると、すぐにお母さんが出てきた。相原が連絡しておいてくれたことを、その表情を見て悟った。お父さんはまだ帰って来ていないらしい。ダイニングから智紀の声がして、靴を脱ぎながら転んだだけ、と大きな声で言った。

「聞きたいことがあるんだけど。」

 夕食後、お母さんが私の部屋に入ってきた。私は上の空で読んでいた参考書を閉じ、ベッドに座ったお母さんの方を向いた。

 お母さんの顔には何かに悩んでいる時の、困ったような微笑が浮かんでいた。自然に鼓動が早まった。

「この前家に来た、楢崎さんだったっけ?あの子眼帯してたでしょ。ものもらいか何か?」

 どうして、と言いそうになるのを押えて、考えるフリをした。簡単に話していいこととは思えなかった。

「わかんない。聞いたことないから。」

「そう・・・その子、出身はどこなの?」

「確か、千葉って自己紹介の時言ってたけど、どうして?」

「あの子を見てから、忘れていたことがあるような気がしてたの。今日奈美が怪我したって聞いて、急に思い出したのよ。」

 お母さんはいったん言葉を置いて、指先を口元に持っていった。私は待った。その顔に戸惑いの色が濃くなっていくのを、じっと見つめながら。

「多分1年以上前のニュースで聞いたわ。大きく報道されていたのもあるけど、その事件の起こった場所が、あなたのお父さん、健一さんの生まれ育った場所だったから良く覚えてる。奈美は記憶にない?」

 その夜はほとんど眠れなかった。お母さんの話に彼女が当てはまっている可能性は五分五分だと思った。

 夜がこんなに長いと思ったのは初めてだった。昇りきった三日月が家々の間に消えていくまで、窓の外を見つめ続けた。懐かしい胸騒ぎを抱えて、私はずっと、お父さんのことを考えていた。

 目を開けると、また雨音がした。最後に時計を見たのは5時だ。目覚ましのスイッチを切って、制服に着替えて顔を洗った。

 お母さんは、キッチンでいつものように慌ただしく動き回っている。お父さんは新聞を読みながらトーストをかじり、智紀が替えの靴下がないと言って騒いでいる。いつもの、いつもの朝だ。

 昨日の夜、何回も何回も考えた。私が知ることで、何か変わることがあるのだろうか?何か失うものが?得るものが?

「奈美、何突っ立っているんだ?テレビなら目覚ましテレビに変えてもいいぞ。」

 お父さんがリモコンを手で押した。私はチャンネルを回しながらイスに座り、お父さんのメガネの奥の目を見た。大分頭頂部が薄くなってきたことを気にして、こっそり育毛剤を使っていることも、実はくまのプーさんが好きだということも、今着ている水色と白のストライプシャツは私が去年の父の日にあげたものだということも、それを大事な商談がある日には必ず着ていくということも、私は知っている。お父さんを構成するものを、私はたくさん知っている。だから安心できるのだ。お父さん、と呼べるのだ。私はこの人を、父親として知っている。他の何物でもない。今、そのことを確認できただけで、泣きそうな気持ちになった。

「そんなに父さんかっこいいか?」

 お父さんが、目線だけ私に向けて言った。その新聞の向こうで、砂糖だけ入れたコーヒーを飲んでいることも見なくてもわかる。わかるくらいの年月を、私たちは共にした。

「うん、かっこいいよ。」

 お父さんは予想外の言葉に面食らったらしく、数秒間黙っていたが、私と同時にプッと噴き出した。

「お父さんに見とれていると、学校遅れるわよ。」

 お母さんは笑いながら私の前にオレンジジュースを置いた。やっとテーブルについた智紀が、ねーちゃん朝から楽しそうだねと少し不服そうに言った。仲間はずれにされてご機嫌斜めらしい。悲しませたくないと思った。この人たちを、どんなことからも守りたいと、その時確かに、思った。

 学校へ行くと、予想通り昨日の事件で持ちきりだった。彼女が学校へ来ていないことも、担任から説明がないことも予想通り。しかし1つ予想外だったことは、ルミとトモミが昨日の事件を、彼女の失った目のことをクラスメートに話さなかったことだ。吹奏楽部の子がこっそり言うには、あのあと2人は相原に殴られたらしい。でも何度聞かれても、担任にさえ見たことは話さなかった。彼女たちなりの罪悪感からだろうか。

 昼休み、池田君が私を呼んだ。2人で最上階の図書室へ向かった。放課後しか使用は許可されていないけど、図書委員の池田君の権限で、こっそり鍵を持ち出していた。

 カビの匂いと、古い本から発せられるチョコレートのような匂いが、薄暗い空間に漂っている。何百年も人が足を踏み入れていないかのような色褪せた床とほこり。高い天井と大きな窓。本は動かされることなく、やがて破れて小さくなっていく。風のうなり声と、翻弄される雨が窓ガラスにぶつかって粉々に砕け散る音が、ただ聞こえるばかりだ。

「昨日、何があった?」

「何で?」

 池田君が私を見た。私の声は本の1ページ1ページに吸い込まれて消えてしまいそうだ。

「鈴木が知ってるからだ。」

「ルミやトモミに聞けばいい。」

 知らず知らずのうちに感情が高ぶっていく。抗えないくらい熱い何かが、私の体をがんじがらめにしてしまう。

「池田君はずるい。どうして彼女にじゃなく、私に聞くの。私だって、まだ知らないことが、たくさんたくさん、あるのに。」

 声が詰まった。池田君が寄りかかっていた窓枠から離れて私に近づいてくる。動けなかった。ただ雨音が小さな世界を支配していた。

「どうして彼女じゃなく、私を抱きしめるの?」

 池田君の白いシャツに顔をうずめながら言った。洗いたてのシャツの、気の遠くなるくらい懐かしい香り。
 悲しかった。途方もなく。

「そうだな、ごめん。」

 私の中の全ての感情を、池田君に知って欲しかった。受け止めて欲しかった。

「でも、俺も知りたいんだ。」

 放課後、池田君と区立図書館へ行って、2年前からの新聞記事を調べた。手分けして1日ずつ、全てのページに目を通した。

「これ、だよな。お前のお母さんの言ってた事件って。」

 その事件は、随分大きく取り上げられていた。それなのに、私は全く覚えていなかった。日々発令される緊急事態宣言、ミサイルが飛んできて戦争が起こってたくさんの人が死んでいく。それらが全て目の前を掠めては消えていく。異常な現状さえ、今や日々の一部だ。

 2人で、事件に関する記事の1つ1つをコピーした。日を追うごとに、それは小さくなっていき、解決したのかしていないのかわからないまま姿を消した。


「アリス、相談があるんだけど。」

「恵美から相談なんて珍しいね。」

 小学生からの幼なじみの2人は、同じ女子高に進学し、同じクラスになった。だからアリスは、新学期特有のもやもやした不安を感じることもなく、クラスに溶け込んでいった。

 恵美は明るく活発で、誰とでも物怖じせずに話ができたし、興味を持ったことは何でもやってみないと気がすまない性格だった。そんな恵美を、アリスはいつも光そのものを見るような気持ちで見つめていた。彼女のそばにいると、自分までエネルギーの循環が良くなって自然に笑顔になってしまう。2人はいつも一緒にいた。姉妹のように、恋人のように。

「コンサートのチケットまたはずれた?」

「違うって。ちょっと、深刻なの。」

 放課後の、誰もいない音楽室。大きく開け放たれた窓から晩春の風が舞い込んでくる。白いカーテンがスカートのように膨らんだ。光の粒子が教室中を飛びまわっている。何もかもが眩しい、とアリスは目を細めた。

 2人は頬を寄せ合ってグランドピアノの下に座った。まつ毛が触れ合いそうに近い距離だ。

「私、付き合ってる人がいるの。」

「え?聞いてない、そんなこと。」

 アリスが顔色を変えて恵美の目を見つめた。今まで秘密なんて1つもなかったのに。

「ごめん黙ってて。でもホントにここ最近のことなの。彼は、伊藤君は社会人で、SEって言ったかな、駅で電車待ちしてたら声かけられて。」

「いつ、」

「先月の終わりくらい。ナンパされて付き合うなんて、アリスに軽蔑されそうで言えなかった。」

「まだ2週間もたってないんだ。」

「うん、おためしって気持ちもあったし。」

 アリスは動揺を隠しきれずに眉根を寄せて恵美を見た。さっきまでのきらきらした世界が、急速に閉ざされていく。

「でも、束縛が激しくてもうムリ。スマホは勝手に見るし、1日何十回も電話かけてくるし、ライン返さないだけですっごい怒って怒鳴るの。この間なんて校門の近くで待ち伏せされて、無視したら無理矢理連れて行かれた。」

「どこに、」

「彼のアパート。困ったことに学校から近いの。それで、なんで逃げるんだって怒鳴りながら殴られた。死ぬかと思った。」

 恵美が自分のシャツをめくり、背中をアリスに向けた。白い背に、まだ生々しい青あざがいくつも浮かんでいた。アリスは、自分の指先が震えてしまうのを抑え切れなかった。

「別れたい、もう。でもそんなこと言い出したらまた殴られる。」

「お父さんとお母さんには?」

「言ってない。付き合ってること自体知らない。もう、やんなる。」

 恵美は両手で自分の体を抱きしめ、顔をうずめた。薄茶色の髪の毛が、風に流れてアリスの肩に触れた。

「大丈夫だよ恵美、一緒にその人に言いに行こう。二人でいれば平気。駅前のモスにしよう?あそこなら周りに人がいっぱいいる。」

 アリスは囁くように言って恵美の肩を抱きしめた。

「大丈夫、私がいるから大丈夫だよ、恵美。」

 蝶の燐粉のような光が、春の終わりを告げていた。

 待ち合わせ場所のモスバーガーは、学校から吐き出された学生で溢れていた。いつもの制服、いつもの会話。

 二人はあまり喋らず、伊藤がいつくるのかと脅えた目で入口を見つめていた。恵美は何度もスマートフォンを触り、絶えず視線を泳がせた。アリスはそっと恵美の左手をにぎった。
 大丈夫だよ、私はここにいる。

「お待たせ、こちらが楢崎さん?」

 不意に目の前に現れた伊藤は、アリスを品定めするように見た。アリスには、大学生くらいの年齢に見えた。つるの細い眼鏡をかけ、白いシャツを着ていた。アリスは激しくこみ上げてくる感情を抑えようと、空いている左手を強く握り締めた。

「そう、彼が伊藤さん。」

 恵美が右の手の平を伊藤に向けた。アリスは軽く頭を下げた。暴力を振うような人物には見えなかった。ただ、育ちがよさそうな人だという第一印象とは裏腹に、その白いシャツの胸元には食べこぼしの黄色いしみがついたままだった。そして神経質そうに目を動かしているのが、異様で、恐ろしく思えた。この人が恵美を傷つけたんだ。そう思うと、まばたきもできなかった。

「伊藤さんだなんて白々しい言い方するなよ。話があるって言うから仕事、早上がりしてきたんだぜ?」

「わかってる、ありがとう。」

 恵美が口ごもる。その横顔は、ひどく脅えていて今にも泣き出しそうに見えた。アリスは祈るようにつぶやいた。私はここにいる、大丈夫。

「話っていうのは、別れてほしいってことなの。もう、会わないでほしいの。」

 恵美が、アリスの手をぎゅっと握った。アリスも汗ばんだ手で強く握り返した。恵美の恐怖が手の平から伝わってきて、アリスはもっともっと強く祈った。この手を決して離さない。ここにいるから、怖くないから。

「何言ってんだよ、冗談はよせよ・・・だからか?だからこいつも一緒に来たのか?」

「殴ったりする人と付き合いたくない。」

「何でだよ。謝っただろ?許してくれたじゃないか。」

「怖かったから。また殴られると思ったから。」

「もうそんなことしないよ、俺が悪かったよ。な?もうしないから、別れるだなんて、」

「私はいや。これ以上私に近づかないで。」

 恵美が涙声で言った。伊藤の額から汗が噴き出し、肩が小刻みに震え出した。目が焦点を失い、荒い息遣いを繰り返している。テーブルの上で指先通しをくっつけたり離したりを繰り返した。聞こえないくらい小さな声でつぶやいていた言葉が、急に大きくなった。そしてイスを倒すほど激しく立ち上がり、

「そんな目で、俺を、恵美を見んじゃねえよ!」

 店内に響き渡るような大声で伊藤は叫び、ポケットから取り出したカッターナイフを、恵美ではなくアリスに振り下ろした。恵美の悲鳴が遠くで聞こえた。左目に光る何かが侵入し、真っ暗になった。熱いものが目の奥から流れていき、体の中から光が消えていく。
 確かにあった光が。

 目覚めると病院のベッドの上だった。傍らにはアリスの祖父と祖母、母親の妹の由紀さんが立っていた。頭が鈍く痛んだ。アリスに気付くと、3人ともが声をあげて泣き出した。アリスは左目を失ったことに気づいても、悲しくなかった。むしろ、伊藤が恵美ではなく自分を刺したことに安堵さえ感じていた。

 病院生活はひたすら長く、退屈だった。来なくてもいいと言っても、3人のうち誰かが一緒にいてくれた。母親は来なかった。体の調子が悪いみたい、と由紀さんは言った。アリスを産んでから母親は体が弱くなって、ほとんど外出しなくなった。人に会うのが億劫なの、といつかアリスに打ち明けた。

 祖父と祖母は、アリスの顔を見るたびに泣いた。ひとしきり泣いてから、林檎むいてあげる、とか退院したら好きなもの何でも買ってあげるね、とか言って笑った。恵美は、と聞くと、何だろう、来ないねと3人ともが同じことを言う。

 アリスは、恵美はきっと罪悪感から私に会えないのだろうと思った。私に悪いと思って、落ち込んでいるのだろう。だから早く退院して、退院したら一番に恵美に会いに行こう、と決めていた。私は大丈夫だよ、怒ってないよ、恵美が無事なら平気だよって言おう。そしたら恵美も安心するだろう。またあのぴかぴか光る笑顔を見せてくれるだろう。そしてまた2人で映画を見に行ったり、恵美に付き合ってアイドルのコンサートに行こう。芸能人の噂話しながら買い物に行こう。私の片目くらい、恵美が笑っていられるなら。

 テレビも雑誌も禁止され、いつ退院できるのかと医師に聞いても、もう少しの辛抱だからと弱い笑顔で返される。アリスが変だと思い始めたのは、目覚めて1ヶ月たってからだった。母親が来ないのも気になった。3人にいくら聞いても、安静を優先させなさいってお医者様に言われているの、と繰り返される。永遠のように長い毎日だった。

 2ヶ月目に入る頃、1時間以内、病院内という制約つきで散歩をすることができるようになった。いつも3人のうち誰かが、見張り番のようにアリスについてきた。しかしその日は、散歩の途中で祖母が幼なじみと偶然再会し長話を始めたので、アリスはそうっと2人から離れた。

 いつの間にか梅雨も終わっていて、強い日差しがアリスの影を濃くしていた。歩き疲れて大きな木の下のベンチに腰を下ろした。頭上から雨のようにセミの声が降ってくる。汗ばんだ首筋をハンカチでぬぐい、目の前を通り過ぎる白い布を纏った人々を眺めた。

 車椅子に乗ったおばあさん。松葉杖をついている若い女の人。腕にギプスをはめて隠れながらタバコを吸っているおじさん。みんなどこかを故障してる。不意に我に返って、アリスは自分の左目を包帯の上からなぞった。あるはずの弾力はなく、何かつめものがしてあるのか、安いぬいぐるみに触っているような感触だった。

 悲しくない、悲しくない、恵美がいれば。下ろした手に何かが触れた気がしてベンチを見ると、誰かが置き忘れた新聞が、風に吹かれてめくれ上がっていた。その黒い文字が無性に懐かしく思えた。

 手にとってパラパラと眺めていると、伊藤、ナイフ、という字が見えた。右目で、飲み込むように文字を追った。心臓が大きく音をたて、アリスの手が震え始める。でも、止められなかった。誰も止めてあげられなかった。

 そうしてアリスは、真実を知った。

「これで最後だ。」

 池田君の頬が一瞬緑色に染まった。コピーは2部ずつとり、2人で持っていることにした。池田君がそれを望んだ。

 外へ出ると、雨はやんで夜空にいくつかの星が薄く光っていた。池田君の輪郭が溶け出していきそうに淡い闇。

「あの記事が彼女に当てはまるなら、調理実習の時に包丁見て倒れたの、そのせいかもしれないね。」

「名前は伏せてあるけど、出身地合ってるし、左目って書いてあったし。まあ確証じゃないけどな。」

 そして私は、相原が、彼女の左目は取られたのだと言っていたことを思い出していた。空気は多量に水分を含み、薄い霧の中を歩いているような気分。

「くやしかっただろうな、身代わりになったはずの友達が自殺したって。自分が左目を失った意味がなくなっちまう。伊藤って男も、重い罪にはならないんじゃないかな。」

 片目も友達も失ったのに、彼女は生きることを選んだ。きっと、失えない何かがまだ彼女の中に残っているのだ。燃え続けているのだ。あの瞳に映る青白い炎は、何を燃料にして燃えているのだろう。触れたものを一瞬にして燃やし尽くす、怒りか悲しみか、それとも・・・?

 次の日も、彼女はクラスに現れなかった。担任も、クラスの誰もが気になっているけど口に出せない、そんな雰囲気があった。でも、それを思っていたのは私だけかもしれない。
 私の中で、彼女の存在は日に日に大きくなっていった。会いたかった。言葉を交わさなくくてもいい、ただ彼女の姿が見たかった。

 放課後、池田君に促されて保健室へ行った。相原は珍しく書類のようなものに何か書き込んでいる最中で、私たちが保健室に入っても呼びかけるまで顔を上げなかった。

「何か用か?見ての通り忙しいんだよ。」

 これ、と言って池田君が新聞のコピーを相原の前に差し出した。相原はそれをチラッと見、ため息をついてペンを置いた。

「座れよ。お前らここまで調べたのか?暇人だなあ。もっと他にやることあんだろ。17の男と女がいればさあ。」

 相原は私たちを見下ろして嘲るように笑ったあと、窓を開けてタバコに火をつけた。池田君は何も言わなかった。長い長い沈黙があった。私も池田君も、相原の口から吐き出される煙を見ていた。ジュ、とタバコを潰し、相原が私たちの前の長イスに座った。

「ここまで知ったんだからお前らも関係者だ。興味本位でしたなんて言って逃げようったってそうはいかねえぞ。責任持てよ。」

「わかってる。」

 池田君が言った。私もうなずいた。

「あと数ミリ深かったら脳みそやられてたくらいの傷だったんだよ。」

 野球部のノックの音が、小さく聞こえた。ここは静か過ぎて、相原の言葉が頭の中にすぐに入ってきてしまう。

「時間が解決してくれるなんて甘いことは通用しねえ。あいつが元の状態に戻るには、一生は短すぎる。担任も生徒も何もしようとしねえ。気付いてやろうとさえしねえ。そっとしといた方がいいなんて責任逃れなんだよ。」

 相原は組み合わせた自分自身の手を睨みつけた。外界の音が、遠く遠くなっていく。

「いいか?知りたいって思いは、相手と関わりたいっていう欲望の根源なんだよ。あいつにもっと関わってくれ、頼む。」

 相原は私たちを見た。この人はこんな顔もするんだ。苦しそうに祈るように、つぶやくこともあるんだ。

「さっきの相原、いつもの相原と違ってマジな顔してたな。」

「うーん・・・先生の顔じゃなかった。父親っていうか恋人っていうか。」

 まだ薄明るい夜空の下、大通りを抜けて駅へ向かった。同じように駅へ向かう制服の中を、二人でことさらゆっくり歩いた。

「なあ鈴木、」

 池田君はかたくなに前を向き、歩く速度を保っている。その向こうにある、パチンコ屋の照明が目に痛かった。

「どうしてこの前、逃げたんだ?」

「忘れ物したって、」

「嘘つくな。舌引っこ抜かれるぞ。」

「痛そうだね。」

「そういうの、むずむずするんだよ。」

「どこが?」

「全身。お前、俺のこと、とうとう好きになったのか?」

 唖然とした。で、ムカついた。

「そうだよ好きだよ悪い?」

 言ってしまってから、ちょっと言い方きつかったかなって反省した。

「やっぱり困ったでしょ。」

「困った。嬉しくて。」

 言葉に詰まった。困る、と嬉しい、って同義語だっけ?はっきりさせたいのは池田君の癖で、そこも好きだったんだけど、今回のははっきりしてない。だって、

「だって池田君は楢崎さんが好きなんでしょ?そんなに答え、急がなくてもいいって、」

「そうなんだよ。でもそうは言ってもなあ。」

「でも、多分楢崎さんは池田君のこと何とも思ってないよ。」

 いじわるだと思いつつ言ってしまった。

「鈴木は冷たい。」

「池田君だってわかるでしょ?でもだからって私にしろとは言わないよ。池田君こそ、楢崎さんのことが好きなくせに私との関係をどうこうしようなんて贅沢で失礼だ。」

「・・すいません。ごもっともです。忘れて。」

「忘れられると思う?」

 池田君、考えてない、何も。待ってるって言ってんのに、はっきりさせたいってもがいてる。男の子ってみんなそうなの?

「思いません。」

「池田君は池田君で頑張ってよ。じゃ、私バス停行くから。」

「なんだよ、今日の鈴木はほんと冷たいぞ!まあいいや、じゃあ抜け駆けすんなよ・」

「なんのこと?あ、バス来たから、じゃあね。」

「じゃあな。」

 薄い雲がかかった空に、半月がぼうっと浮かんでいた。バスの窓から月を見ながら、いろんな人のいろんな顔や言葉や声の感じを思い出した。彼女の顔や言葉や声の感じは、まだ多くを知らない。泣いた顔も優しい言葉も怒った声も。

 私は彼女の目に、どんなふうに映っているのだろう。

 次の日もその次の日もそのまた次の日も、そして今日も、彼女は教室に来なかった。その間、もしかして保健室にいるのかも、と思ってのぞいたけど、機嫌の悪い相原に睨まれただけだった。

 そして私は、先ほどえいっと決意して職員室に行った。担任に彼女の家の住所を聞くためだ。プリントを届けに、と言うと、露骨に驚いた顔をした。そのあと、頼まれたのか、とか仲が良かったのか、とか、ちょっと嬉しそうな顔をして聞いてきた。

 彼女は叔母にあたる人と2人暮しで、電話をかけても彼女が話したがらないと切られてしまうらしい。先生も会いに行けばいいのに、と思ったけど言わなかった。私も今頃決心がついたのだし。先生は頼むぞ、と言って復習のプリントやお知らせの紙をたくさんくれた。

 先生の書いたメモを見たら、彼女の住むマンションは私の家のすぐ近くだった。そうだ、神社の近くって、彼女から直接聞いたんだった。思い出したらうんと懐かしくなった。バスの中で彼女の横顔を見たこと、雨の中、私の家まで歩いたこと、ベルギーチョコを食べたこと。思い出せば出すほど、彼女と共有した時間は少ないと気付く。だからきっと、色んなことをためらってしまうのかもしれない。

 彼女が住むマンションは、私がコンビニに行く時によく通る、大きな神社のすぐ目の前にあった。境内の杉の木が光を遮り、季節がらただでさえ弱い日差しがほとんど届かない。3階の部屋のベルを押すと、中から30代半ばくらいの女の人が出てきた。彼女の叔母さんは、私と私の持っているプリントの山を交互に見て、家に上げてくれた。2DKの室内は神社と反対の窓から光が当たるらしく、思ったより明るかった。しかし、部屋全体が押し黙っているかのように静かだった。

「遠慮しないで座って?荷物は後ろのソファに置いていいから。」

 ショートボブの髪と膝丈の白いスカートが、彼女の持つ明るい雰囲気に合っていた。ハッキリした声でてきぱきと話し、まるで私が来ることを知っていたみたいに落ち着いていた。

「あの子、最近ずっと寝ているの。病院生活が長かったから、疲れちゃうみたい。でも、もう少ししたら起きてくるわ。」

 叔母さんは私の前に氷入りのカルピスと、小さなクッキーが入ったカゴを置いた。

「自己紹介がまだだったわね。アリスの叔母の由紀です。鈴木奈美さんよね。あの子がお家にお邪魔したんですって?」

「はい、ええっと・・・はい。」

 相原に聞かれた時もそうだったけど、家に来たとはいえ、黙って2人で漫画読んだだけだ。それ以上、何て説明すればいいのかなって、ちょっと困った。

「私たち大人がぴりぴりしすぎちゃったの。あの子を守ることに必死でね。だから、あなたがあの子に関わってくれてほっとしてる。私たちには手の届かないこと、いっぱいあるもの。」

 関わるって何?彼女のどこに関われば、彼女は笑えるようになるの?

「あなたが来てくれたから、きっとまた学校に行けるわ、あの子。もっと楽しいことはいっぱいあるってこと、少しずつ知っていけたらいいんだけどね。」

「彼女の、楢崎さんのご両親は、」

「母親は入院してる。近くの病院の、精神科にね。こっちにいいお医者さんがいるって聞いて、2人で引っ越してきたの」

 由紀さんは淡々と言い、心配しないで、という代わりににっこり笑った。目の輪郭が彼女に良く似ている。彼女も、本当はきっとこんな風に笑えるんだ、と思うと心強かった。

「あら、今日は早いのね。」

「声が聞こえた。」

 彼女は上下グレーのスウェット姿で、髪の毛もぼさぼさのまま現れた。それでも、その神聖な美しさは変わることはなかった。私を見ても表情を変えず、よたよたとソファに座った。

「顔、洗ってきなさいよ。」

 素直に立ち上がり、彼女は私の背後を抜けて行った。会えなかった淋しい気持ちと、また会うことのできた新鮮な喜び。

「晩ご飯食べていかない?特売だったからたくさん買ってきちゃったの。」

 断る理由もなかったから、うなずいた。

「ご飯できるまで部屋にいっていたら?」

 由紀さんは、2人分のカルピスを乗せたトレーを、顔を洗った彼女に差し出した。彼女はそれを受け取って部屋へ入って行った。私も慌ててそのあとを追った。

 彼女の部屋は、思ったとおりシンプルだった。小さい頃から続いているものが何もない。幼稚な絵の入ったイスや、夏休みの課題で作った変な模型、古いぬいぐるみ、親戚のおじさんが買ってきがちな百科事典などが。

「何時から寝てたの?」

 カーペットの敷かれた柔らかい床にトレーを置き、ひざを抱えて眠そうな目をして、彼女は私を見た。前に会った時よりも青白い顔をしている。薄く削られた大理石のような頬、細い顎、真っ白な眼帯。私はこの中を見たのだ。だからもう、何があるのかなんて悲しい胸騒ぎを覚えなくて済んでいる。

「昨日の十時。」

「夜の?」

「夜の。」

「・・・20時間?2日分以上寝てるじゃん。ずっとこのペースなの?」

 彼女は力なく頷いた。

「あっ寝ちゃダメ。ねえ、何か話して?何でもいいの。楢崎さんの話が聞きたい。」

 私はコップに刺されたストローを、彼女の口元に持っていった。彼女はうつらうつらと体を揺らしながらもそれを飲んだ。

「カルピスって夏にしか飲まない。」

「そうなの?私は冬も飲むよ。冬の方が多いかもしれない。あっためてさ。カルピスって毎年いろんな味が出るでしょ。私、一時期全種類制覇しようとしたことあるんだけど、2本終わるくらいで冬も終わっちゃう。」

「どんな味があるの?」

 彼女は右目をしばたきながら言った。膝で顎を支えたまま、子犬のような目で私を見ている。

「巨峰でしょ、みかんにメロン、ふじりんご、もっとあったけど、何だったっけなあ。だいたいフルーツとのコラボ。」

「みかんっておいしそう。」

「あ、今家にあるよ。私以外飲まないから、今度また家で一緒に飲もう。早く次のが飲みたいんだ。今、黒酢入りのもあるらしいよ。」

 彼女は、ゆっくりと頷いた。髪の毛が、鳥の羽みたいに彼女を包んだ。

「鈴木さんは、」

「奈美でいいよ。」

「奈美は今、幸せ?」

 彼女は顔を上げて、忘れていた何かに気付いたように言った。考えたことなかったから、戸惑った。

「アリスは?」

「今日は、奈美が来てくれたから、幸せ。」

 びっくりして彼女の目を見つめ返した。そして、彼女が私を待っていたことを知った。ずっとずっと、待っていたことを。

「私も、アリスに会えたから幸せ。」

 2人で、瞳の中だけで笑った。

「アリスの地元は千葉だったよね。どんな所?」

「海の近く。高い崖の上にはちっちゃな登れない灯台があって、ここより空が大きくて、」

 彼女は、記憶の糸を手繰り寄せるように中空を見つめながら言った。

「おじいちゃんとおばあちゃんが住んでる、」

「お父さんは?」

「いない。生まれた時から。」

「ごめん、」

 罪悪感から下を向いた私を、彼女が見ている気配を感じた。

「でも妹はいる。」

「そうなんだ。地元に?」

 そして彼女は言った。

「私の目の前に。」

 私は反射的に顔を上げた。彼女は、安らかに笑っていた。混乱よりも、その美しい微笑みに心を奪われた。長崎の大きな教会で見た、マリア様に似ていると思った。

「私の左目がどうしてこうなったのか、知ってる?」

「・・・・・・知ってる。」

 彼女は膝を抱えたまま目を閉じて、歌うように話し始めた。

「あのことがあって、生きていかなくてはならないことを心底呪った。息を吸って吐いてご飯を食べて眠ってまた起きて。そのサイクルの中に恵美はもういない。私だけが取り残された。そのことだけが真実だった。恵美がいない世界は、静かだった。寂しかった。暗かった。

 何度も何度も、私がどうすれば恵美を死なせずに済んだかを考えた。恵美をあの場所に連れて行かなければ、恵美の両親や警察に話していれば、目を覚ましてすぐに恵美に会いに行けば。同じことばかり、もう取り返しのつかないことばかりが、浮かんできた。それが無意味だとわかっていても、何度も何度も想像した。目を閉じていても開けていても悪夢の中にいるみたいだった。

 そこから逃げるために、私は思いついたの。明るいことが見えそうなことを捜そうって。そして私の父親を見つけ出すことに決めた。父親を見たこともなかったし、お母さんもほとんど私に話してくれなかったから、お父さんが自殺していたことを知るまでにはかなり時間がかかった。

 もう傷は治っていたけど、私まで自殺するんじゃないかって心配されて退院できなかったから、タウンページをね、ナースステーションの近くにある電話ボックスから持ってきて、誰かが来るたび隠しながら、ずっと見てたの。いつか誰かにお父さんの名前、聞いたような気がしたから。

 頁をたぐっているうちに、小さい頃近所のおばさんに言われたことを思い出した。アリスちゃんって、大森医院のけんいち君のお子さんなんだって?って。当時は意味がわからなかったけど、その時初めて納得できた。大森医院は家から歩いて十分とかからないところにある大きな病院なのに、私は一度も行ったことがなかった。風邪をひいて肺炎になりかけた時も、階段から落ちて腕を骨折した時も、盲腸になった時も、家族は隣の市の病院へ車で私を連れて行った。

 同級生の振りをして、けんいち君いますかって大森医院に電話した。そしたら、けんいちはいません、ってお母さんっぽい人に電話、切られちゃった。今は、なのかもう、なのかさえ聞けなかった。でも、絶対大森けんいちって人が私のお父さんだって思った。そこで行き詰っちゃって、どうしても前に進めなくなっちゃった。でも、お父さんのことを考えている時だけ、私は無心でいられた。私のことを知ったらどう思うだろう。お母さんに会わせたら、お母さん元気になるかな、って。

 お腹がすいてたまらない時に、目の前に一番好きな食べ物が置かれた時の感じ、寝てなくて今にも目を閉じてしまいそうな感覚、何かで私の中を満たしたかった。食事でも眠りでも満たされない何か。その何かが見つからないなら、もう私に生きる希望は生まれてこないって、気付いていたの。」

彼女はそこでいったん言葉を切った。

「疲れた?」

「眠い。」

 私は右手だけ伸ばして彼女の髪に触れた。彼女は一瞬のうちに体を離し、大きく目を開けた。脅えた色は、けれどすぐに消えた。

「触られるの、怖い?」

「少し、」

 彼女はたった1人で、自分の体1つで戦ってきたのだ。生きることもやめられず、死ぬこともできずに。彼女の髪は柔らかく、どこまでも素直だった。

「寂しかった?」

 寂しかったよ、と彼女は消え入りそうな声で言って、ちょっとだけ泣いた。私はその透明な液体が、彼女の大きな目からこぼれ、薄桃色の頬をなだらかな放物線を描きながら滑っていく様を、夢の中で夢を見ているような遠い気分で見ていた。涙の雫が顎を伝ってその清らかな首筋へ流れ、やがて服に染み込むまで、ずっと。

 彼女は何回か目をしばたかせ、指で目の下をこすった。愛しい、と思った。恋人や家族や友達に対する気持ちと似ているけど少し違っていた。名前のないものに対する感情のような気がした。愛しい。私は彼女が愛しい。

「2人とも、ご飯できたわよ」

 ドアが開いて、由紀さんの顔がのぞいた。

「早くおいで。」

 由紀さんは笑って手招きした。はい、と返事をして立ち上がった。由紀さんが台所へ戻る気配。

「続きは?」

「明日。」

 次の日彼女は教室へきた。担任はよくやった、という目で私を見た。私はそれを不快に思った。ノリちゃんもミコも何も言わなかったけど、私と彼女の間で何かあったことに気がついたと思う。

「鈴木、ぬけがけ禁止って言ったろ?」

 池田君は笑って言った。立てかけられた長ほうき。2人きりの化学準備室。遠くで聞こえるビートルズのイエローサブマリン。薬品の強い匂いとガラスの戸棚。窓を覆う暗幕。近い近い距離。

「ぬけがけって?」

 私も笑って池田君の瞳を正面から見つめた。

「まあ楢崎も鈴木も元気そうで何よりだ。」

「池田君もぬけがけ、するの?」

「そうだな、機会があったら。」

 大切にしていたおもちゃを、自ら水溜りに落として泣いている子供の目。まっすぐで自分勝手で可愛くて、手に負えない。

「彼女のどこが好きなの。」

「わからないところ。少しの情報じゃ全てが見えないところ。」

 池田君はゆっくりと瞬きをした。

「全てを知ったら、そこで終わりなの?」

「終わりかもしれない。けど、終わればまた次のわからないことが出てきそうな子だ。」

「私は?」

「鈴木にも似たところあるな。何考えているのか、表情や言動だけじゃわかんない時ある。」

「男と女の意思疎通の違いじゃなくて?」

「俺の考えていることは?」

「わかんない時もあるけど、その前に池田君は本心口に出しちゃってる。」

「なんでか言っちゃうんだよな。別に後悔はしないけど。」

 池田君はまつげを伏せてつぶやいた。重い遮光カーテンはまだ目を閉じていたけど、その隙間から降り注ぐ、雨の後のような神聖な光が、私たちの影を濃くしていた。

 彼女の髪に触れた時と同じように右手を伸ばし、池田君の頬に触った。冷たく澄んだ月長石、湖に沈む星の欠片。やっぱり好きだ。私にはない、この冷たい瞳が。全身の毛穴が開いていくような感覚と同時に、息が苦しくなった。爪先立ちをして、池田君の唇に触れた。このまま闇にでも光にでも溶けちゃえばいいのにって、思った。目を開けると、池田君はやっぱり無表情のまま私を見てた。でも私はこの顔が色を変えたのを見たことがある。今は、自分の気持ちが定まっていない、ということが定まっているんだ。

 イエローサブマリンが止まった。掃除の時間はもう終わり。私たちの時間ももう終わり。

「梅雨が明けるね。」

「もうすぐな。」

「そしたら夏だね。」

「暑くなるな。」

「夏はすぐ終わっちゃうからなあ。」

「ま、いいんじゃねえ?いつもと同じだ。」

 放課後、彼女と一緒に学校から離れた広い公園へ行った。ブランコとベンチと水飲み場、あとは桜の木しかないシンプルな公園。私たちは白い木のベンチに並んで座った。黄緑色の芝生から、夕立の名残の水滴が空へ昇って行くのが見えた。

そ して私は彼女を見た。彼女は横顔のまま微笑んで、鞄の中から紙を2枚、取り出した。

「相原がくれた」

 よく見ると、メールの本文をプリントアウトしたものだった。


   相原義彦様

 メールを拝見いたしました。返事が遅れてしまったことをお許し下さい。先週、私が以前勤めていた先の社長から電話があり、あなたから連絡がきた旨を伺いました。それからあなたのメールを受け取り、その内容にとても驚いたのですが、私もアリスさんのお父様は、大森君じゃないかと思ったのです。 

 大森君と一緒に働いていた時に、一度だけ聞いたことがあるのです。

 大森君はあまり社内の懇親会などには参加しない方でした。しかしその日は珍しく私の隣に彼がいました。そして彼はやけに酔っ払って私に言いました。金子さん、俺寂しい。一人は寂しいよ。故郷の千葉に結婚を反対されて置いてきた恋人がいるんだ。でもあいつは故郷に残ることを選んだんだ、って、泣きながら言ったのです。毎日黙々と仕事をこなし、悩みなんかなさそうな横顔を毎日見ていたので、そんな過去が彼にあったことに驚いて、何も聞けなかったのが本当です。彼の話を最後まで聞いてあげられなかったことが、今は悔やまれてなりません。そのことを思い出し、もしかしたらその恋人というのがアリスさんのお母様じゃないかと思ったのです。

 大森君は同じ会社の事務をしていた人と結婚しました。でも、それからすぐに自殺をしました。当時は誰も原因がわからなかった。けれど、あなたのメールを読んで何となくその過程が見えてきた気がいたします。ここからは推測ですが、多分、奥さんが懐妊して籍を入れてから、アリスさんのお母さんが自分の子供を産んだことを、どこかから聞いて知ったのでしょう。

 彼はどこまでもまじめで、神経質な一面も持っていました。悩んだ挙句の決断だったと察します。

 私の推測がどこまで確かなのかは、もう確かめるすべもありません。きっと今頃、大森君は、ただアリスさんや残されたご家族の幸せを願っていると思います。

 とりとめのない文章で申し訳ありません。疑問が少しでも晴れたら、幸いに存じます。では。

                            金子徹

 

 文面を読み終わって、私はお母さんに聞いた、雷の夜のことを思い出していた。彼女は、自分の部屋にいる時と同じように膝を抱え、ゆっくり体を揺らしていた。ベンチの上の彼女の白いふくらはぎが、とても心細く、切なく思えて仕方なかった。懐かしさに似た、淡いメランコリーだ。

「東京に来たのは、偶然?」

「そう、本当に偶然。あのことがあってから、お母さんの心は完全に壊れちゃったの。多分、私が生まれる前から少しずつ病んでいったんだと思う。」

 彼女は遠く遠くを見つめた。空の果ての、水色と桃色のその奥を見つめていた。やがて陽は夕日に変わり、そして夜が来るのだろう。

「この地域に引っ越してきたのも、この高校に転校してきたのも偶然、なの?」

「そう、みんな偶然。あの日、保健室で奈美と先生の話、聞いちゃったことも。」

 彼女が、私の顔を覗き込んだ。夕日の金の光を受けて、彼女の右目は泣いているように見えた。

「私だけ何も知らずに幸せそうで、嫌だった?」

「そんなことない。奈美は知ろうとしてくれた。それって、私と記憶や思いを共有しようとしてくれた、ってことでしょう。嬉しかった。本当に。」

 夕の風と柔らかい沈黙が、私たちの間を流れていった。

「アリスのお母さんは、私のお母さんでもあるわけだよね。会いに行っても、平気?」

「多分、無理だと思う。症状が安定していないから、面会できない病棟にいる。私のことも、誰だかもう、わかんないって。」

 彼女は教室にいる時のように表情を消した。膝の上で両手を組み合わせ、祈るように口づけた。

「これから私たち、どうしようか。」

「とりあえず、今度カルピス飲みに家に来て。」

 美しい彼女が微笑んだ。彼女が姉である保障は、確乎たる証拠は何もない。彼女の言うことは嘘かもしれない。でも、いいのだ。美しい彼女の傍にいられる理由が一つ、できたのだから。

 私が全てを話し終えるまで、お母さんは何も喋らず、膝の上に手を置いて、時折目を閉じながら聞いていた。

「明日アリスがうちに来るよ。」

 お母さんはじっと自分の手の平を見つめている。

「私も奈美もあの子のことを知ったわ。もうあの子から何も奪わせない。そうでしょ?」

「うん、そうだね。」

 約束通り彼女は来た。私も約束通りカルピスみかん味をご馳走した。部屋のブラインドを下げて扇風機を回す。日差しは毎日少しずつ強くなって、天気予報士は猛暑になるでしょう、って繰り返す。アスファルトには逃げ水。夏休みまであと数日。

「昨日、池田が家に来た。」

「何しに?」

 彼女は笑った。氷がからん、とのんきな音をたてた。ブラインドの向こう側は、もう初夏を通り過ぎて夏の光が溢れている。今日、映画に行ったメンバーで夏休みの計画を立てた。塾や夏期講習の合間を縫って、海と花火と水族館へ行く。話の輪の中に池田君もいた。

「そういえば聞かなかった。」

「相原と付き合っているのかって聞かれた。」

「はあ?」

 池田君、大胆すぎるぬけがけだ。

「奈美は池田のこと、好きでしょう。」

「好き、だね。それでアリスは何て答えたの。」

「言おうとしたら、由紀さんが不自然なタイミングでお菓子持ってきてくれた。」

 彼女は自分の部屋にいた時のように、ベッドに背中をくっつけてひざを抱えてる。

 今は彼女のことを知ったから、怖くもないし不安でもない。ただ、やっぱり彼女を美しいと思うだけ。容姿や声や頭脳や心や、目に見えるものも見えないものも、美しいと思う。でも、姉としての彼女は知らない。

「奈美、心配しなくてもいいよ。私は別に、」

「わかってる。でも、アリスがこの先池田君のことを好きになってもかまわない。ライバルとか、そんなの古いし。」

「違うの、奈美。」

 彼女は大きく息を吸った。頬がバラ色になった。

「男の子は、私の恋愛対象にはならない。」

「・・・・気ぃ使ってるワケじゃないよね?」

「そんな変な気の使い方しない。」

 あららら。残念だったね池田君、って案外心の中は冷静だった。

「多分伊藤は、私が恵美のことを友達としてじゃなく好きだったこと、わかったんだと思う。自分は恵美のそばにいられなくなるのに、私は友達ヅラして恵美の近くにいられることが、悔しかったんだと思う。」

 そんなの、わかんないじゃん、って言ってあげたかった。でも、言ったって意味ない。彼女はそんなこと求めてない。そんな甘っちょろいフレーズ。

 私は腕を伸ばし、彼女の左目の眼帯に触れた。彼女は体を硬くした。

「ねえアリス。私のこと、もっと知って。アリスが安心できるように、もっといっぱい話そう。いろんなこと。」

「でも、奈美を恵美の代わりにしてまた、」

「本当にそう思う?」

「・・・わかんない。」

「そうだよ、わかんないんだよ。起こったことはどうとでもとれるけど、未来は誰にもわかんない。でしょ?」

 彼女はこっくりと頷いた。少しの間、黙って2人で見つめあった。扇風機が回る音、生ぬるい風の感触。

「アリスが池田君のこと、何とも思ってないのはすぐわかったけど、相原とは何かあるのかなって、思ってた。」

「先生は由紀さんの彼氏。内緒ね。」

「ハアァ?」

 あのスケベやろう、生徒の保護者に手ぇつけてたのか・・・。

「奈美、考えてること顔に出てるよ。」

 アリスに真顔で指摘された。水玉コップの中の氷が溶けて、淡い橙色のカルピスと二層になってる。もう夏なんだ、ってその時急に自覚した。

「奈美、私の故郷に行こう。」

「近いよね、千葉だったら。」

「うううん、3時間半かかる。」

「ハワイに行けるじゃん。韓国も。」

「電車が1時間に1本しかなくて、特急か各駅停車の二者択一だから。特急は料金高いから乗れない」

「うんいいよ。いつにする?塾の集中講座が8月入ってすぐあるから、7月中がいいな」

「じゃ明後日。12時に荷物持って駅」

「泊めてくれるの?」

「おじいちゃんとおばあちゃんがいるから大丈夫。」

「そっか、よろしくね。」

「お父さんが育った街だよ。」

「私たちの・・・お父さん。」

「そうだよ。海が好きで毎日泳いでたって、ずっとずっと前にお母さんが言ってた。」

「見に行きたいな、海。」

「そうだね、行こう。」

 彼女がご飯を食べ終わって玄関で靴を履いていた時、お母さんがリビングにいるお父さんと弟に見えないように、そっと近づいて彼女を抱きしめた。彼女は驚いて目を見開いたまま固まった。お母さんは、ぎゅうと彼女の細い体を自分に摺り寄せた。

「ご家族の方によろしく言ってね。アリスちゃん、また来るのよ。絶対よ。」

 その言葉に、彼女はようやく優しい顔をして頷いた。彼女が帰ったあと、お母さんは、

「奇跡って、こういうことを言うのね。」

 と泣きながら言った。

 夏休み初日、私は大きなボストンバッグを持って駅前に立っていた。1泊なのにパンパンに膨らんだバッグの中には、お母さんが詰めた、たくさんの東京土産が入っている。これを持ってあと3時間も移動できるのかな、と不安に思いだした時、彼女は現れた。

「シャンプーとかくらいうちにあるよ?」

「違う違う、これはお母さんが、」

「あ、電車来た。」

 転がり込むように電車に乗った。新宿で総武線に乗り換えて、千葉に向かった。

 見慣れた景色が遠ざかっていく。江戸川を越えると、ビルが一段低くなった。総武線の車窓はとても大きい。

 停車駅で乗って来る人は必ず、彼女の眼帯に目を落とす。

 千葉駅に近づくにつれ、また人が増えていく。小さなビルや看板や細い川が風景の中に流れていく。不意に、言葉がこぼれた。

「アリスのお母さんは、私のこと、憎いって思うかな。」

「どうして?」

 彼女が小さな声で言った。

「自分の好きな人が去ってしまって、別の女の人との間に子供ができて、」

「お母さんは、自業自得だと思う。」

 彼女ははっきりそう言った。強い強い眼差しで。

「お父さんを追いかけなかったお母さんは、バカだと思う。お父さんが、奈美のお母さんのこと好きになったの、誰も責められない。」

「でも、」

「お父さんもバカだ。逃げてばっかりいたから。」

「私だって、アリスの過去に一瞬ひるんだ。相原に逃げるなって言われなかったら、見て見ぬふり、してたかもしれない。」

 彼女は黙った。何を考えているのだろう、たった1つの彼女の瞳は、ガラスのように澄んだままだ。

 電車が止まり、終点の千葉に着いた。乗り換えの時間が短く、早足でホームへ入った。総武本線八日市場まわり銚子行きの車内は、2人掛けの座席が向かい合わせになっていて、東京ではあまり見ない形だ。私たちは窓際の席に向かい合って座った。窓の外は距離と比例して建物がなくなっていき、しばらくすると飽和したように同じ景色が続いた。見渡す限りの緑の田んぼ。右の窓も左の窓も、光る鮮やかな緑だ。遠くに低い山々と小さな家々。白い道。時折ふっと現れる立て看板。

 気まずいと思っていたのは私だけだったことに、30分もすると気づいた。彼女は窓を小さく開け、何かのメロディーを口ずさんでいる。夏の風が彼女の前髪を揺らして去っていく。長いまつげを伏せて、小鳥のようだ。

「何、歌っているの?」

「タイトルわかんない。ずっと前、音楽の時間に歌ったやつ。」

「もっかい歌って。」

 彼女の声は、風に乗ってくるくる回って流れて消えた。

「懐かしー。中学の時、音楽の時間に聞いたわ。キャッツの『メモリー』だね。どんな歌詞だったっけなあ。」

「千葉にいた時は毎日海で歌ってたよ。夜に、そっと部屋を抜け出して。」

 誰もいない夜の海辺で、波に向かって歌う彼女を想像した。不意に何かを思い出しそうになった。それはホースから飛び出した水に反射する光のように、頭の中でチカチカまたたいた。まぶしくってはっきり見えない。

「奈美は卒業したら、どうするの?」

「大学行く。それで建築のこと勉強する。お父さんが建築士だからっていうのが大きい。」

 そこまで言って気付いた。私には今のお父さんがいる。私の本当のお父さんじゃないけど、お父さんの存在が何なのかを、私は知っている。でも、彼女は知らない。その手のぬくもりを、背中の広さを、私や弟を見る眼差しを、厳しい言葉を、彼女は知らないのだ。それは不幸なことなのだろうか?

「ごめん、」

「どうして謝るの?奈美の罪悪感は私を苦しくする。」

「わかった。もう言わない、こういうことでごめんって。じゃあ、アリスは卒業したらどうするの?」

「千葉に帰りたい。あっちには、大切な思い出がたくさんあるから。でも、無理だろうな。」

「あの子のこと、思い出したりするの。」

「忘れたくないし、忘れないことが、私の役割だと思う。あのことがあったからって、全てを消してしまいたくない。以前は苦しかった。後悔が大切な思い出まで侵食してしまいそうだった。でも、お父さんのことを知っていくうちに、お父さんの情報が私の中で新しい記憶になって思い出になった。それが、侵食を食い止めてくれた。」

「アリスの頭の中はすごいね。小人が住んでいるのかな。」

 私が言うと、彼女は笑った。

「奈美と出会ったことも重要だったな。嬉しかったんだよ。お父さんの記憶を共有できる人がいたんだって。」

 そして私は、1枚の写真を彼女に渡した。

「1番右端がお父さん。お母さんがアリスにって。私にも焼き増ししてくれたの。」

 彼女は恐る恐る、といった感じで写真を受け取り、じっと覗き込むように見つめた。写真の中のお父さんは笑っている。会社のビルの前で従業員の人たちと一緒に、ちょっと照れ臭そうに、笑っている。

 アリスの右目から、大粒の涙がぽろぽろと流れ落ちた。彼女はぬぐおうともせずに写真を見つめ続けた。

「今度うちに来た時に、お母さんと、お父さんのこと、話そうね。」

「うん、そうだね、ありがとう。この写真のお父さん、幸せそうだ。お父さんは確かにここにいたんだ。笑っていたんだ。」

 優しい彼女が、その写真を大切そうにハンカチにはさんでバッグの中にしまった。私たちのお父さんは、彼女が言うように弱虫だったかもしれない。だから彼女にさえ会えずに死んだ。でも、愛されていたのだ。きっと本人が気付いていないだけで、いろんな人に。それを知ることで、彼女は、私は、救われるのだ。

 駅に着くと、彼女のおじいちゃんとおばあちゃんが車で迎えに来てくれていた。家につくまで、2人は私と彼女にたくさんのことを聞いた。学校は楽しい?嫌いな食べ物は?部活は何をしているの?彼女は淡々と、でも安心しきった声で、私と2人の顔を交互に見ながら喋った。多分、彼女の祖父母は私をただのクラスメートだと思っているのだろう。それでいいと思った。本当のことを知るのも言うのも、彼女と私に許された、たった一つの権利なのだから。

 母親から預かった大量のおみやげを渡すと、2人はとても喜んで、あとで千葉の名物も送るね、と言ってくれた。おばあちゃんが作った、彼女の好物や地元の名産品を食べ、彼女の子供の頃の話を聞き、お風呂に入って、ふとんを並べて横になった。家の中は静まり返っている。夢の中に片足を突っ込んだ頃、彼女が小さい声で私を呼んだ。

「起きてる?」

「う・・・半分寝てた。アリス、眠れないの?」

「奈美、海に行こう。」

「今から?」

 彼女が上半身を起こし、私もつられて枕から頭を上げた。スマートフォンを見ると、1時を過ぎていた。

「今日は満月だよ、行こう。」

「こんな時間に危なくない?怒られるよ。」

「大丈夫。私は何回も行ってる。」

 彼女は囁くように言った。私たちはTシャツに短パンで家を抜け出した。玄関を出ると、強い潮の香りが鼻についた。

 人も車もいない広い国道を渡ると、波音が近づいてきた。道路沿いに等間隔で立ち並ぶ街灯、微かな虫の音、明かりの消えた人家。人影のように見えたバス停のポール。

 防波堤を抜けて、背の高い草が生い茂る浜の入口に立った。空には、頂点を過ぎた満月が煌々と浜辺を照らしていた。サンダルの下の柔らかい草の感触。黒く沈むテトラポット。私は彼女の手を取った。

「月は、海を目指して進んでいく。」

 彼女が、水平線を指さして私の方を向いた。どこかで見たことがある。彼女のこの表情も、この風景も。私は強く強く思った。彼女に手を引かれるまま、一歩一歩波打ち際へと近づいていく。砂浜は、月光で薄く発光しているように見えた。

「お父さんも、きっとこの風景を見たことがあると思う。」

 波の上に、一筋の光が遥か彼方へ続く道のように揺れている。ダイアモンドの粉が振り撒かれたように眩しい。私たちは足を止めた。

「お父さんに、会いたかった。」

「私も、会いたかった。」

「お母さんにも、もう一回だけでいいから、会わせてあげたかった。」

「私もそう、思う。」

 彼女が寂しそうに微笑む。夢でこの風景を見た。私は確信していた。いつか見た夢だ。いつ見た夢だろう?海辺で、彼女がいて、月が堕ちていくところだった。あの夢の中に迷い込んだみたいだ。悲しい音楽のように、心が流れていきそうになる。彼女の髪が、生暖かい海風を受けてゆるやかにひるがえった。

「この、銀色の波を渡っていけば、お父さんと恵美に、会いに行けるような気がしてた。」

 彼女が横顔のまま言った。何て切ない目をしているのだろうと思った。つないだ手が熱い。

「行かないでね、アリス。」

「うん、もう、行かないよ。」

 彼女がゆっくりと私の方を向いて微笑んだ。
 白い眼帯がまばゆく発光しているのを、私は見た。
 彼女の手で眼帯がはずされると、月の光がいっせいに窪んだ瞳の中に集まって、まるで蛍のように、優しく光って消えていった。



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