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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第12回 第10章 東京での大学生生活

 私の東京での学生生活は評価が難しい。成果も多岐にわたり大きかったが、期待外れや大損害の面もあったからだ。仮に上京を断念して現役か一浪までで北大医学進学課程に進むことができていたら、その後どのような人生になっていただろうか。ドイツ語もそこそこできるようになっていただろうか。それに東京のあの人の多さや暑さは何だったのか。よく関東に4,300万人もひしめいて住んでいるね。道北、道東はほとんど人がいなくて「がふがふ」だよ。
 午後11時50分過ぎに東京駅に行って、ホームの人が途切れた隙に写真を撮ろうとカメラを構えて待機していたことがあった。ところが、そんなに遅い時間帯でも、次から次へと乗客が湧いてきて、大都会のまっただ中の無人風景というシュールな写真を撮影する目的を達せられなかった。
 また、酷暑にはついに5年間慣れることができなかった。地元出身の学生たちによると、暑さは昔より一層異常な水準になってきているのだそうであった。そして、あの冷房。病気になる。暑、冷、暑、冷、を繰り返していると、自分のこの体が、海岸で集められて熱せられて刀を鍛造する材料の砂鉄になっているかのように感じた。その割に、鍛えられておりまっしぇん、あたくし。この体、鉄じゃなくて「鉱滓」の方だなきっと。
 それでも、私は外語大在学中にドイツ語、英語、フランス語、イタリア語、ラテン語、スウェーデン語、オランダ語まで、一心不乱に勉強した自負がある。我が青春の東京は外国語三昧の日々であった。まったくの基礎文法、基本単語レベルではあっても、これらすべての言語で思考する能力を獲得し、その先に進む橋頭堡を打ち立てた。我、諸外国語大陸上陸作戦に成功せり。これらの中で、専攻しているドイツ語こそが最重点であった。
 入学時にすでに相当なドイツ語力に達しているらしい、ドイツ、スイス、オーストリア生まれの新入生が数人いた。ドイツ語圏出身の先生方や来訪者たちと早口のドイツ語でお喋りをしては、時々大笑いをしていたため、ボクとは別世界の人間たちのように見えた。その学生たちの中にドイツ語専攻はひとりもいなかったのだが、皮肉なことに、ドイツ語はネイティブのように使いこなしていながら、母語のはずの日本語の読み書きに苦労しているようだった。
「この漢字、どうして読みが三つもあるんだ」
 トーマス・マンは4万5000語もの語彙を駆使して小説を書いた。一外国人に過ぎない私ではあるが、最低その3分の1は使えるようにしたい、と決意して学習を開始した。英語で解説された入門教材が分かりやすかった。読み始めて6分も経たないのに、すでに最初のドイツ語文を作ることができた。日本におけるドイツ語研究、教授法は高度な水準に達しているらしく、その遺産、資産の恩恵を受けることができて、学習に困難を覚えることはなかった。
 祖父の遺した書物群の中に版が異なる4冊ものDer Zauberbergつまり『魔の山』があり、本棚に揃って収納されていたため蔵書の中でも際だっていた。これらに対して、フランス語版のLa Montagne magiqueと英語版のThe Magic Mountainは、なぜかこれらとは違うてんでばらばらの場所に置かれていた。祖父はフランス語もできたのだろうか。身近な人間のことは良くは分からないものである。少し話がずれるが、例えば今あなたの背中でモグサは煙を立てているだろうか。あなたの部屋の上空を、抜けたばかりの乳歯は飛んでいるだろうか。まさか、翼竜は飛んでいまい。これほど近いことが人間には分からないのである。
(モグサだったら、熱さで分かるだろうさ)。
 ボクは、上京したその初日から、ドイツ語というあちこちに氷山の見え隠れしている波立つ大海に高飛び込みの選手のように真上から突入して、明けても暮れてもこの言語の習得に全精力を傾ける日々に移行していた。できれば一瞬も眠らずに食事も取らずに息継ぎさえ忘れて何日も学習を続けていたかった。毎日どんどん理解が進んでいった。おそらく脳の葉(よう)の一部の表面に金文字でDeutschlandという刻印がなされていたであろう。
 外国語の訓練においては、10代のうち、それも遅くとも16歳ぐらいまでに、400メートル競走のような努力を連日しておくことが鍵である。20歳を過ぎてしまっては遅すぎる。一瞬も手を抜いてはならない。訳が分からないまま夢中で勉強しているうちに、その対象の言語の全体像がようやくゆっくりと浮き上がって見えるようになっていく。
 そこで、文法力もまだ初歩に過ぎなかった1年生の夏休みに、祖父とも因縁の浅くなかったらしいこの『魔の山』に挑戦することにした。数名の知り合い学生に声をかけて、ページを分担して一緒に勉強しようと提案したのだが、全員から即座に「無理!」と断られた。そのひとりは私に対してこう反駁し、逆提案をした。
「大学1年生の夏は、自由に長期旅行できる一生で最初で最後のチャンスだ。この過当競争の国で、お受験で小さなころから毎日競争に駆り立てられて受験勝者になったおれらだろう。小学校に入る前から母親に車で送迎される塾通いで、自宅で夕食さえ取れずに、一体何個コンビニのおにぎりを食べさせられてきたか。習い事も日替わりで押し付けられた。
 ♪ 月曜日は英語の塾よ〜
    火曜日は算数・国語〜
     水曜日はスィミングデー
      木曜日は特進クラス〜
     金曜日はピアノのレッスン〜
    土曜日はリズム体操〜
   日曜日は酸素吸入〜
  月曜日は、
 ゲッ、休みが1日もなかったやんけ、オレ。それとも、一週間って8日あったのか。そうした犠牲を払わされた挙げ句にこの大学に入れて、今はまるで生まれて初めて青空を見上げて酸素を吸っているような気分になっているんだ。自分の身長の何倍もある長さの土管の奥にきつく閉じ込められたような苦しいだけの受験生活の最大のご褒美がこの目前の夏季休暇なんだ。パスポートも取ってきてあるし、18歳の今行かなくていつ行くんだ。誰も自由時間をくれないんだぞ。次のチャンスは40年後まで待たされるんだぞ。それまでに職場でこき使われて、急性心不全かなにかで死んでしまうかも知れないんだぞ。そうなったら、年金だって1円ももらえないままで、人生丸損だろう。いまどきトーマス・マンなんか読んでないで、おれと一緒に安いチケットを使って、タイ経由でオランダ、ベルギー、フランス、モロッコに行ってみないか。ベルギーで樽一杯のビールを飲もう。エッフェル塔からパラシュートで降りて、地上で憲兵に逮捕されて、その晩のテレビニュースに出よう。帰りに叔父さんが赴任しているカディスに寄ってみよう。スペインの大西洋岸だぞ。世界史の授業で聞いたことあるだろう」
 具体的な旅行先の提案は別として、振り返ればそいつの言う通りだった。しかし、高校の時に余計なお世話の縮約版をうっかり読んだために知ってしまっていた、主人公とショーシャ夫人とのやり取りやゼッテンブリーニの饒舌まで読み進めるのはいつになるのか見当も付かなかったが、ボクは是非とも今すぐこの分厚いドイツ語の小説を原語のまま読んでみたかったのだ。
 そこで、理性的で現実的なその連中を心の中で次々と5寸釘の血祭りに上げて、意気込んで巻頭のページから解読を始めた。が、である。ドイツ語はまだ3ヶ月しかやっていないのである。このderは何じゃ? 男性1格か、女性2格、3格か、複数名詞の2格か? しかも、挑戦相手は20世紀を代表する知識人のひとりの大作であった。結局、それから7年経っても私は魔の山を下りることはできなかった。この新入生だったときの私の若々しいプロジェクトは膠着状態に陥り、鳥葬に遭ってしまったかのようである。
 それでも、ドイツ語学習の奮闘の甲斐あって、3年生で独検1級に、4年生で通訳案内士試験にドイツ語で合格した。この後者の国家試験の実質3年ちょっとでの合格は誇れる成果である。だが、上には上があり、同じ学年の大阪外国語大学の学生は、英語圏で生まれ育ってはいたが、2年生でフランス語、3年生でドイツ語に受かり、それで安心したのか、念のため英語でも今度は4年生で合格を果たした。どのような勉強法を取ったか聞いてみたいものである。
 じいちゃん、オレ、ドイツ語のプロの入り口に立ったよ。一度でいいから、じいちゃんとドイツ語で話してみたかったよ。それも、もちろんduzenでね。
「その前に我が孫よ、オレの遺影の落書きをきれいにしろ」
「じゃあ、鼻毛のとこだけ消すね、じいちゃん」
「ぶあっかもん。他は何を描いてあるんだ」

第11章 英語、その他の外国語 https://note.com/kayatan555/n/n073d084bcfcf に続く。(全175章まであります)。

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