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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第13回 第11章 英語、その他の外国語

 また、結局どのような職業に就くことになるにせよ、高度な英語力は身に付けて行かなければならない。まして、医師になることができれば、その重要性は決定的に高い。この国の一般の学生は国際的に見て英語での読書量がかなり少ないようだが、私の場合は15歳ですでに自分の決意で英語の週刊誌を定期購読して、短めの時間を決めて精読と速読を繰り返して訓練していた。スリックペーパーに印刷され、ヘアラインで仕切られた英語の記事で都内より1日遅れで札幌中央郵便局経由で届くアメリカ、そして世界のニュースと雰囲気を、高校1年生のボクは毎週どれほど待ち望んでいたことだろう。
 その二つ折りの週刊誌は、質の悪い薄茶色の腹巻き型の帯封筒に包まれて両端が剥き出しで郵送されてきていた。日本郵便には切手・葉書デザイナーが7人いるが、そのうちの誰かの作品であったであろう切手が2枚貼られており、それらの上に消印が捺されていた。どこの郵便局から発送されていたかまでは覚えていない。あの筒型の包装紙のごわごわした質感は、古語でいえば形容動詞の「すくよかなり」となるのだろうか。
 熟考の末、大学に入った今、英語では会話ではなく書くことに一番力を入れて学習することにした。なぜなら、大前提として何か主張したいことや説明をしなければならない対象があって、それらを文章に綴って論じたり解説をしたりしてこそ自分の文法力も語彙も強化できるからである。書ければ、話す内容もより豊かで複雑にできるはずであったし、普段から多種多様に英文を書き貯めていれば、その内容が強く印象に残って、話すときに思い出せる確率が高まることも期待できた。
 具体的には、主に「指定文の続きを書くこと」と「テーマ指定英作文」の2つの方法を用いた。
 まず、自分で英語ないし日本語で、起点になる短文を書く。この文を元にして、その先を英語で書いてみるのである。これは気楽に書き始めることができて効果的であった。例えば、The porcelain teacups at the flee market were inexpensive; Yellow is a color of hope; We bought a toy tugboat for our two-year-old nephew; I have as many as four brothers; My father was born in Okazaki, Aichi Prefecture; The tax revenues of our city have been decreasing sharply to our dismay; The prefectural capital city of Hokkaido should be transferred to Takikawa or Sunagawa; Banking may disappear in a few yearsや、「私の理想は庭でオリーブを育てることである」「北海道のナナカマドの実はスコットランドと異なり甘くない」「ドアを開けようとしたが、鍵が鍵穴に入らなかった」「向かいの住民は90歳を超えてもメガネを必要としていない」などの先のストーリーを色々想像して英語で書くのである。
 2つ目は、何らかの題を自分に課したり友だちにランダムに出してもらったりして、できるだけ内容を持たせた文を書くことである。まだ覚えている例として、「病院に飾るのにふさわしい絵」「本棚」「友情」「安全・安心な歩道」「事前に準備をせずに旅をすることは可能か」「ペットを飼うのに月いくらぐらいかかるか」「日本の人口の15%以上、都民の30%以上が外国人になったらどう対処すべきか」「extra-large shoes」というようなテーマがあった。
 これら2種類のトレーニング方法で英文を高速で綴ったのであるが、設問の傾向や解答の仕方が両者似通ってくることもあった。いずれも、英語でうまく表現できない場合には、日本語の文を間に1つ挟んでそこで一呼吸入れて、ふたたび英語で書くという工夫もしてみていた。こうすると、延々と書けるのである。どちらの方法とも制限時間を1題25分間以内にしていた。それ以上の時間を使うのは賢明ではない。
 そのために必要な文法力や語彙は他の学生より相対的に有利な水準に達していた。辞典は使い放題とした。電子辞典も併用したが、一覧性その他から紙の辞典こそが優れているので、複数の紙の辞典をメインにした。両手で辞典を開いて、一回で目当ての単語を探り当てられることが増えていった。書く段階ではパソコンは避け、100円ショップで買ってきた大判の雑記帳に手書きするようにしていた。すると、例えばconstitutionなどという単語も、自分用であるから、まともに綴るのは最初の3文字程度、つまりこの場合だとconだけは恐らく他人でも判読可能な程度に書くが、その後は一瞬で横一線だけで書けて極めて効率的であった。
 いったん書き終えた速記のような文を、今度は忘れないうちにパソコンに音声入力し印刷して自己添削するのである。音声の文字変換効率を高めるには自然な発音とイントネーションを身に付ける必要があり、そのためにはCDなどで目を閉じて英文を聴き取る訓練が役立った。発音・アクセントは最初から正確に覚えておく必要がある。そうでないと、その後、どの単語を間違えて頭に入れてしまったかの探知は事実上不可能であり、従って矯正できなくなってしまう。執筆の年月日と時分秒に至る時刻は必須のメタ情報であった。
 私は父の遺品の文房具を少しずつ使って減らしていた。使いかけのものはそのまま保存し、未使用の鉛筆、シャーペンの芯、インクのカートリッジをこの英語訓練の際にも使っていた。将来これらをすべて使い切った時に、父への供養の度合いが一段階上がる気がしていた。
 ドイツ語に加え、今後想定最大100年生きるために不可欠の英語にもこうして相当の力を入れたため、フランス語から後の外国語の実力は一段と低く留まらざるを得なかった。それでも、いつ役立つようになるかは分からなくても、20歳ぐらいの若い脳と肉体を活用してこれらの外国語学習の端緒を開いておいて賢明だった。鉄はまず原料の砂鉄を集めてから熱くしなければならないのである。どの外国語も命がけで勉強・訓練する価値がある。
 スウェーデン語では名詞の後に冠詞が付く。例えば、「家」を表す英語のthe house、ドイツ語のdas Hausがhuset(ヒューセット)となる。etの部分が冠詞である。husとetと分けるのではなく、1語扱いする。実に面白い。尾翼の方にプロペラのある夜間迎撃戦闘機みたいである。
 オランダ語で「あなた(がた)」を表す単語は、たった一文字「u」である。これ以上短くはできない。
 ベンジャミン(伊東?)・フランクリンの外国語学習戦略は正しかったと思う。独立革命前後のアメリカではラテン語の授業を先にして、その後で「現代」語のフランス語などを教えていた。しかし、実用を重んじたフランクリンは、実生活や仕事に必要な自分と同時代の諸言語を先に勉強して使いこなせるようにすべきであり、そこから時代を溯る方がラテン語もよく理解できる、と判断したのであった。フランクリンの使ったラテン語教材も“Latine loqueris?”から始まっていたのだろうか。発行所は大西洋の彼方のロンドンやオックスフォードだっただろうか、それとも身近なフィラデルフィアあるいはボストンだっただろうか。英国での印刷だったとすれば、ウィリアム・キャクストンが印刷機をもたらしたのはロンドンだったから、学術の中心オックスフォードよりもロンドンだった可能性の方が幾分高かったのではないだろうか。
 実際、私は現代イタリア語が少し読めるようになってからラテン語を学習し始めたのであるが、使用したイタリア語で解説されたイタリア人向けの教材があまりにも分かりやすく楽しくて、ドイツ語専攻を止めようかと思ったぐらいであった。ラテン語は単語を1つ見るだけで脳が痺れる。それぞれがフォロ・ロマーノの遺跡の石材のように感じられる。私は古都・京都生まれだった父と対照的に札幌という日本人移民にとっての新開地に生まれ育ったため、古い国、古い町、古い地域に一瞬で心を奪われてしまうのである。
 私は英語専攻の友だちから「今の英語と少しちゃうねんぞ」と教えられて、中学生の時に日本語版を読んだことのあるフランクリンの自伝を英語で読んでみた。すると、確かに21世紀の米語とは若干の相違があることに気付いた。しかし、その差は重要ではなかった。中英語まで溯ってしまうと事情は大いに異なるが、200年程度の昔であれば、当時活字で印刷出版された英語の本は現代の我々にも基本的によく理解できる。アメリカ人Lindley Murrayが英国で著しベストセラーかつロングセラーとなった英文法も、まるで最近出された書物のようにすら感じられる。これは驚くべき言語の安定性である。江戸時代に日本語の活版印刷はなかったし、言文一致に至っておらず、表記も現代とは大いに異なっておりし候。版木による各種書籍の出版は素晴らしかったが。
 貴族の生まれでなかったフランクリンがお札にまでなって世界中に流通しているのは、その誠実、賢明かつ勤勉な努力と社会への惜しみない貢献に対する高い評価による。私は人生でどこまで行けるだろうか、と祖父と父の無念を思った。仮にフランクリンが雷の実験を謀略で妨害されて感電死していたら、別の顔が緑の紙幣に載ったのかも知れない。例えばマッド・サイエンティストとか。すると、そのお札は海外ではもっぱらトランプのジョーカーとして使われただろう。
 東京は諸外国語学習のインセンティブと機会にも国内で最も恵まれている。何本もの路線が乗り入れていて石畳に粋な料亭などもある神楽坂もすぐそこの飯田橋で降りて、ちょっと坂を上る教室にも通ってフランス語のほんの基礎もかじった私としては、フランクリンがパリで話すフランス語を肉声で聴いてみたかった気がする。トクヴィルの米語もだ。王様、教皇その他もいない新大陸に滞在しているのをいいことに、気楽に、“Howdy!”なんて挨拶をしていただろうか。きっともてていただろう。
「ねえ、ねえ、もっとパリの話を聞かせて。そのパリジェンヌとあたいとどっちが好き? 答えなさいよう、もうっ。(ポカッ)。よかろうもん、アレックスったら。(ポカッ、ポカッ、ポカッ)」

第12章 東京歩き https://note.com/kayatan555/n/n182e64c8feb1 に続く。(全175章まであります)。

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