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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第19回 第17章 ロシア語にも手を出す (前半)

 このコがきっかけで、そのロシア語の勉強も始めた。これは想定外の贅沢だったが、このコがいなくても、外語大というのは、学生が自分の専攻以外の新たな外国語を勉強し始める際の心理的な閾値が著しく低いのであった。スーパーで買い物をしていて、予定外の食材などをひょいとバスケットに加える程度の感覚である。その何気ない新規追加購入品が、選んだ当人にとってやがて本来の専攻外国語を凌ぐ重要性を獲得して行くかも知れないし、逆に、いつの間にかバオバブに形を変えて巨大に生長して母屋を圧迫して行かないとも言えない。学生同士の強烈な対抗意識も存在していた。言わずもがなの目標は、それぞれが自分で選んだ外国語の全国一の能力獲得であった。
 ではどうやって勉強すべきか。在学している外語大のロシア語の先生に会うのは気が引けたので、どこかよその先生は見つからないかと考えていたところ、札幌の小学校で2学年続いて同じクラスだった友だちが、その後、父親が東京勤務を経てモスクワ特派員になったため、何年かロシアに住んでいたことを思い出した。帰国後、その親はあまり名前を知られていない大学の教授に転身し、時々テレビの報道番組に出演してコメントを述べている。お気の毒に、寒さにやられたのか、毛髪は荒廃している。まるで、シベリアかどこかで隕石になぎ倒されて、一部数日間火災になっていた森林のようだ。
 この元友だちは日本の大学に進学する際に、帰国子女枠選考なる特権的な入試制度を利用することができたそうである。いくつかの大学がそのような措置を講じている。本来、競争試験というものはすべての受験者にとって完全に同一の条件の下で行われなければならないが、そのような例外的な対応がやむを得ない救済策なのか、それとも純然たる優遇策なのかは、一概には言えないであろう。国内の高校生と同じ学習環境・条件は、海外に居続けていると確保不能である。現地の学校のみに通って、たとえその中でトップの成績を取っていても、日本の入試は国内の学校で文科省の方針に従った教育を受けているという前提で作成・実施されているため、外国から帰国して受験することは不利そのものである。外国住まいで、日本の教科書、学習参考書、問題集、その他の教材を手に取って比較してから購入したり、塾、予備校に通ったりすることも不可能である。以前、ライデン大学で研究をしていた日本人留学生が、元某大手予備校講師だったというニュースが地元の日本人に知れて、その先生を取り合う騒ぎが起きたそうである。在外勤務ないし在住の超エリートたちが、自分たちの子弟の利益を図ってこうした苦境を迂回するだけでなく、逆に有利に転換させるために、各大学に働きかけて特別の制度を実現させたのであろう。というような事情があるため、小学校の成績をそのまま判断基準にするのは不適切かも知れないが、それでも常識的に言って、あの児童がずっと国内にいたら、あんな難関の大学に入れただろうかと、ちょっと疑いたくもなる。2階級特進という感じだ。
 とは言え、他に思い当たるルートはなかったので、この古いつてに頼ってみることにしてみた。すると、この知り合いはボクが忘れていた小学校の一泊田植え経験学習のことを覚えていた。その時に、ずっと吹き続けていた冷たい強風に加えて雨まで降り出したのに、真冬でもコートも着ずに歩道を半袖シャツで出勤して来ていた担任教師に、そのまま田んぼでの作業を続けさせられたために熱を出したのをボクが助けてやったことを恩に着ていて(そう言えば、ぼんやりとそんな記憶があった。由仁か長沼に行ったのだった。「ゆに」の「ゆ」を長く伸ばして「ユーニ」とすると、ドイツ語ではJuni=6月の意味になる)、「そんなら良い先生がいるぞ」と、教え方が巧みで採点も甘いと教え子たちから慕われているという先生を紹介してもらえた。しかも、この友だちは一家の帰国後、北海道には戻らず、ずっと中野に住んでいたのだった。何だ近くじゃないか。
 そういう経過で、お江戸の「朱引」の外側にあるその先生の大学をずうずうしく訪ねてみることにしたのである。大学のホームページには、このロシア語の先生は、デュッセルドルフの和食レストラン経営者の家に生まれてドイツの普通の学校で教育を受け、数年間ブラジルにいたこともあると書いてあって何となく親しみを覚えた。この先生ならドイツ語力がドイツ人並みだろうと期待できたし、うちの宮の森の親戚のひとりがブラジルに移民していたからでもあった。
 手ぶらも何なので、前にテレビの番組で名前を聞いたことのあったピンガを2本忘れずに買って持って行くことにした。強そうじゃのう、この酒は。高いのか安いのか判断できない値段だったこの直輸入品を買いに行ったポルトガル語の表示だらけの店内に入ると、スポットライトが2つビリヤード台を照らしているコーナーで、腕をわざわざ背中に回して玉を突いていた甘納豆色の髪のひとりを含む数人が一斉に右の眉毛を上げ、オーナーらしい男性が何やら私に話しかけた。何かを確認したいようであったが、何と言っているか分からなかった。そこで、私が「えっ」と聞き返すと、この人物は狩猟用ナイフを反対側の板の壁に向けて投げつけて突き刺し、カウンターを両手でリズミカルに叩いて、勝ち誇った笑顔で、仲間たちに向かって命令するような口のきき方をした。そして日本語に切り替えて、「オレの勝ちだ。このお客さん、日本人だ。さあ、お前たち賭け金を寄越せ」と言ったのだ、と説明してくれた。つまり、ブラジルでは身近に日系人がいて、この店にやって来る見知らぬ客が外見だけでは同胞か否か見分けがつかないので、日本人に見える客が来たらポルトガル語の通じる相手かどうか当てる賭をしている、というのであった。通じるなら右の眉を上げ、通じないなら左、分からなければ左右の眉をそれぞれ耳の方に引っ張る、であった。
 この店主は常連らしき客たちから500円玉をひとり1個ずつ巻き上げてズボンのポケットに入れたのだが、穴が空いていたらしく、硬貨はジャラジャラと床にこぼれた。イヌがオットマンから飛び降りて走ってきて、回転していた硬貨の1枚を左前足で床に押さえつけた。尻尾を振ってオーナーの方を見たのだが、客たちの視線の動きから、自分の体の右斜め後ろにも何枚かあることに気付いたらしく、後ろ脚を延ばしてみたのだが、ダックスフントに生まれた悲しさ、生憎あと少しのところで届かずに悲しそうな顔をした。この南米人たちは、笑い声で満ちた板張りの店内で、コーヒーを飲みながらいろいろお喋りを続けた。飲み物自体アマゾン川を思わせる色だったし、連中、よほど甘い物好きなのか、コーヒーの表面からは茶色っぽい砂糖の山が突き出していた。それで、フランス人がドイツ人をからかった冗談をまとめた本の中のエピソードのひとつを思い出した。ブラジルには日系人だけでなく、ドイツ系も少なくない。
 ドイツ軍の捕虜になった英国軍の兵士がドイツ軍の司令官の給仕をさせられることになった。この将校はユンカー出身で位は高いが糖尿病を患っており、砂糖は厳禁であった。ところが、そんなこととは知らないイギリス人は故国での日常生活で紅茶を喫する際に砂糖が不可欠だったため、指示された温度ぴったりに淹れたコーヒーをトレイに乗せて司令官室に入っていって、„Nehmen Sie Zucker zum Kaffee?”(コーヒーにお砂糖を入れますか?)と尋ねた。ドイツ人はドイツ語で„Nein!”(ナイン=要らん!)と答えた。すると、イギリス人は、普通そんなに入れないんだがなと首を傾げながらも、そういう命令なら致し方ないと、フランス製の茶色っぽい角砂糖をnine(ナイン=9個)コーヒーカップに入れたのであった(„Wollen Sie mich töten?” ぬしゃあ、あちきを殺めるつもりかえ)。

第17章 ロシア語にも手を出す(後半)https://note.com/kayatan555/n/n0e49dcd571a1 に続く。(全175章まであります)。

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