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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第20回 第17章 ロシア語にも手を出す (後半)

 理由がよく分からなかったのだが、ロシア帰りの子ども時代のクラスメートから添付で送られてきていたプロ並みに見事なイラストの地図を頼りに訪ねて行った大学では、目当てのロシア語の先生の研究室に入る前から合理的な説明のできない現象が相次いだ。まず、ドアを開けようとしたところ、ノブは騙し絵であり、右横の平坦な壁の一部が100倍速の成長を遂げたキノコのように見る間に盛り上がって本物のノブが現れた。どうやら、人見知りをするノブのようだった。次にドアを押して中に入ろうとすると、なぜか足が固い棒状の障害物につっかえて前に進めなかった。しかも、接触部に火傷をしそうな高熱を感じ、靴下の焦げる異臭がした。下を見ると、床から20センチほどの高さに金属パイプが横に通されており、気付かずに慌てて入ろうとすると転んで大怪我をさせられかねない取り付け方だった。
 メタセコイアの大木の日陰になっている室内にそっと侵入すると(スパイでもあるまいし、なぜこんな言い方をするのか)、この研究室の火気管理責任者である先生は、小太りのミイラを模した着ぐるみのような物体に全身くるまって、不自由そうな足取りでスキップをしながら、机の回りをゆっくりと回っているところだったのだ。人間、頭が良すぎるとああなるのだろうか。宇宙飛行士が地球上より重力が弱いどこかの天体上をスローでジャンプしているのにも似ていた。お顔が見えませんが、せんせ。後で面会の途中で尋ねてみると、天板に何やら象嵌を施した偏光装飾は、プーシキンの詩の一節であることが分かった。 
 元文学青年らしいこの先生は、低い声のロシア語でカチューシャの歌詞を唸りながら、「あっ、ウダレーニエ間違えた」、一人マトリョーシカごっこをしていたのだ。そのためすぐには素顔を出せず、内側から「ああちょうど良かった。君ちょっと、どこの誰だか知らないが、地球人だか火星人だかさえ知らないが、ああ、電話があった、あの君か、これ全部取り外すのに手間がかかるんだ。悪いけど一番外側から1枚ずつ外して行ってくれないか」というくぐもった声が聞こえた。請われるままに滑りやすい頭の部分を押さえて外すと、1枚下の層が現れ、タマネギを前にして焦燥感に苛まれたサルのように作業を繰り返して、最後にロマノフ朝創始者の顔を描いた殻を取り去ると、赤いハート模様が白地の上に0.5ミリほど浮き上がっていくつも描かれたカチューシャで髪を留めたお髭のおっさん、もとい、ロシア語の先生が肩で息をしながら顔を出した。何だ、こいつは。その印象を隠しながら、あのう、文法が難しいと聞いていますが、ロシア語が分かるようになりたんです、某外国語大学でドイツ語を専攻しているんですが、他の外国語も大好きです、とアドバイスを求めてみた。
 バッグに酒瓶を収めて、「うん、うん、はー、はー、うん、はー、はー」と喘ぐように荒い呼吸をしながら私の相談を聞いていた先生は、初対面なのに、横にいる指導教官に観察・採点されている研修医のように、模範的な「問診」をして、これまた教科書にそのまま載せてもいいような見事なアドバイスをくれた。ドイツ語を専攻しているなら、かなり古いがNina Potapova先生の書いた教本のドイツ語版を使ってみたまえ、と勧められた。えっ、ニーナ何ですって? 新嘗祭ですか? ポテト増量キャンペーンですか? 逆に中身減らして実質値上げしてませんか。そして、ドラマの探偵の真似をするかのように、最後に眉間にしわを寄せて、その上を指先で叩きながら、喉の奥から絞り出すような声を出して、「外国語の勉強というのは、交際相手ほどには君を裏切らない。ロシア語ができるようになるかどうかは、君次第だよ」と言った。せんせ、誰かにフラれたばかりだったんすか。それに、あんまりあの俳優さんに似てませんでしたよ。♪ジャジャジャジャーン。
 着物の着付け教室の講師のように、「さ、キミ、帰る前にこの積層鎧を再装着するのを手伝ってくれ。自分でやると何分もかかってしまうんだ。あと1枚で完成という時に限って、出し抜けに電話がかかってくるんだ」と催促する台詞を耳に、ボクは横に積み重ねられていた超薄型の鋳型のような、卵を入れる紙容器のような人間ケースを取り付けていった。それぞれの表面に描かれた歴史上の人物を見ながら、ロシア史を17世紀から21世紀まで復習して行き、作業は皇帝で始まって、皇帝で終わった。ウラー。
 辞去して、灼熱パイプで転ばないように気を付けながら部屋から出てエレベーターの方に歩いていると、ドアの向こうからこの准教授が再開したマトリョーシカごっこの声が次第に小さくなって聞こえていって、電話が鳴り出し、ドシンと転ぶ音がした。だが、他の研究室から誰も出て来なかった。いつものことだったのだろうか、それともそれぞれ自分自身の衣裳か何かを着脱中だったのだろうか。と想像していたら、今度は別の部屋からも似たような転倒音が聞こえた。あっちは出身地のマスコット着ぐるみで石蹴りでもしていたのかも知れない。何なんだこの大学は。教授たちがそれぞれの研究室の中で、自分の「殻に籠もって」いるのか。でも、某先生、大いに参考になりました。貴重なお時間ありがとうございました。スパシーバ、イ、ダスヴィダーニャ。リリーン、ガシャーン。
 その後、自分でも調べて、どの言語で解説した教材を使うべきかを検討したときに、ロシア語の格が主格、生格、与格など6つであるのに対して、男性名詞単数に対応する定冠詞がder, des, dem, denと変化する、格が4つのドイツ語を使うのが、確かに一番言語同士の相性が良さそうに思えた。残念ながら、この予想は間違っていることが後になって分かった。スラブとゲルマンの間には、政治・軍事だけでなく、言語においても一種のオーデル・ナイセ線が存在していたのであった。Potapova先生は外国人学生の学習上の困難や弱点を理解していて、しっかりと文法を身につけさせる教授法に長けている。つまり、学生は習っている間はサボれずに辛いが、後になって振り返ると、何年、何十年経った後でも、ロシア語との接触の要所要所で事前配慮をしてもらっていた有り難さが身に沁みる良い先生なのだ。こうして、初歩の文法程度は分かるようになってから東京を離れたのだが、私はいまだにロシア語のど素人のままである。学習した単語のひとつひとつに思い出がある。これはロシア語に限らない。

第18章 「アメリカンスカヤ」のその後 https://note.com/kayatan555/n/ndbd1a0546e61 に続く。(全175章まであります)。

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