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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第21回 第18章 「アメリカンスカヤ」のその後

 再びそのロシア語専攻の留学生のことだが、まだ頻繁に会っていたころに、きみのそのボストン訛りの英語と私がついうっかり言うと、「訛ってなんかいません。ボストンこそが一番由緒正しい米語を話している都市よ」と、見事にできるようになっていた日本語で言い返されたものだ。その後いろいろあって、すでに在学中に関係が薄れていったため、卒業後どこに行って何をしているのか、結婚したのかしていないのか、さらに離婚したのか、子どもはいるのかいないのか、いずれも分かりようがない。
 誰にとっても、学生時代に住んだ街には人生全体でも特別の価値と照らし切れない陰影がある。それが、あのコの場合には外国の首都だったのだ。サファイア高校のボクと同じ学年でも、札幌に来る前にどこか違う土地で暮らしていた生徒が少なくとも30人ぐらいはいた。生まれた場所も道内だけでなく、国内のどこか、特に首都圏が多かったし、さらに、インドネシア、タイ、韓国、ベルギー、オーストラリア、ベリーズ、アメリカ、台湾、ベトナム、リトアニア等々の外国で生まれて日本にやって来た事実上の移民たちもいた。親たちにとっては帰国でも、この15歳から18歳までの高校生たちにとっては、慣れ親しんだ「自国」から「他国」への人生転換は大変な苦労だっただろう。
 このボクの元カノは、色々気に入ってきて離れられなくなってしまったのと言っていた東京で就職したのかも知れないし、アメリカに帰ったのかも知れないし、イギリスの方が性に合っていると想像して「小さな大陸」に移ったのかも知れなかった。アメリカとイギリスは言語以外はよく似ている、と言われることがある。仮に米語のネイティブスピーカーが英国で生活するとなると、実際はどう感じるのだろうか。
 複数の土地に住んだ経験があると、どこに住んでいても満ち足りなくなってしまう。しかし、そこは、逆にそれぞれの土地のプラスの面を評価するように心がけ、否定面はなるべく見ないようにすべきなのである。つまり、あの生まれた街では自分はこのように守られていた、次に住んだ街ではこういう点を身に付けることができた、さらに3番目の場所ではこのような体験ができた、と積極面を連ねて頭の中に並べておいた方が精神的に豊かでいられるはずである。前にいたあの街でなら、あの駅で降りて、あそことあそこの図書館に行って、あの店に入って、あれが買えて、あれが食べられて、あの人々と交歓できたのになどと嘆き始めると、心の中を空っ風が通り抜けて精神が荒涼としてくる。お肌も荒れるわよう。
 まさか、地元ニューイングランドの仲間たちと長い夏休みを利用して自転車で厚切りの大陸を東から西に横断したこともあったあのアスリートが、大学院に進学して、何年もかけて慢性的なストレスと睡眠不足から胃潰瘍になりかけてまでして博士号を取って(「えへん」)、ロシア語を教える学科が複数ある札幌に移住してきて、ロシア地域研究か何かの担当として、どこかの大学で専任講師以上に採用されていたりはしないだろうな。
 それなら、札幌はごく狭いから、そのうち何らかの噂を耳にするようになる可能性があり、それどころか、地元の新聞や出版物に笑顔の顔写真入りで報道されたり、いつか街の中でばったり本人に遭ってしまう危険さえ大である。なぜなら、人口が約230万人で全国のわずか2%未満の札幌圏では、複数の大学の教授陣や在野の研究者、外国語の専門家等が一部重複しながら動的に形成しているコブシの実のような形をした言わば変形ミニ電子雲は、構成人数がごく少なく、ジグソーパズルのピースに例えてみると、数十枚ないし100枚を超えているであろう東京とは違って、せいぜい3枚程度に過ぎず、匿名関係が成立し難いためである。すると、たとえ1枚目に属している人間が2枚目にいる人々の一部は直接知っていながら残りの3枚目のことは白紙で情報がなかったとしても、必要があればこの2枚目のピースを通して間接的にその3枚目のことを探ることが十分可能なのである。
 3のことはロシア語ではトリーという。1、2、3は、アドナー、ドゥヴァー、トリーである。これらから始まる1から100までの数字は初学者を早速悩ませるのだが、3の発音をイメージする度に、その部分を含むスマトリーの永久語感が脳の奥底から様々な属性と感覚を伴った記憶を無作為に励起させざるを得なくなり、私は北海道の湿度の低めの風ではなく、東京や神奈川、千葉といった「南方」で過ごしていた学生時代の、エアーギターならぬ仮想のエアータオルなるものをきつく絞れば、たちどころに水滴を滴らせることができそうなほどに水分をふんだんに含んだ空気に全身が包まれて行くのを感じるのである。そうしているときに、突然後ろから、聞き覚えのある声で、「ドーブリージェーニ、イヴァーン。ヌ、クトー、エータ、ジェンシュチナ?」(こんにちは、イヴァン。ねえ、この女の人だ〜れ?)って不意を突かれたりして。シェー、出て来てしまったざんす。ちなみに、ボクはJoeとだけでなく、時々イヴァンとかイヴァーンとも呼ばれていたのだった。本当はイヴァンに英語で対応する名前はJohnなのだが、この大陸的に大雑把なコは、それにも関わらず浄であるボクのことを半分からかってはイヴァーンと呼ぶのだった。

第19章 札幌の高校から東京の大学へ https://note.com/kayatan555/n/n553650156438 に続く。(全175章まであります)。

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