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『石狩湾硯海岸へ接近中』の全文公開 連載第49回 第40章 ピッツァ (後半)

 セシリアの「丘のお友だち」は2人とも日本人だったが、片方は日本の中学3年生の途中から父親の転勤で海外に行き、高校3年間をすっぽり外国で過ごした。そのため、古文・漢文の知識がほとんどないことを嘆いていた。英語圏にいたため英語に堪能だと、入試では有利でも、古文・漢文ができなければ、卒業後に社会人としてやって行く上では困るだろう。この両方を知っていないと、まともな日本語は読めも書けもしないからだ。苦しくとも、今の学生時代に家庭教師を雇ってでも高卒程度の実力を確保しておかなければならない。
 現代日本語の標準的な漢字の知識に乏しく、日本でずっと教育を受けた人間なら誰でも漢字表記をするであろう単語をいくつもカタカナでメモしている帰国子女の同時通訳者を見かけたことがある。それぞれの単語に対応する漢字を知らないのであろう。それで、当該の単語の意味が本当に理解できているのかどうか怪しいものである。漢字の持つ表意性、造語能力は偉大なる中華文明の恩恵を受けている日本語にとって不可欠の素晴らしい資産であり、この特性があるために、初見の漢字の文字列の意味も十分想像可能である。(ドイツ語の長い複合名詞も漢字を羅列したようである。そのおかげで、この言語で、ある水準以上の習熟度に達した後は、すでに意味を知っている単語と単語の組み合わせによる複合語の意味が瞬時に理解でき、ドイツ語学習が急に楽になる。悪天候の滑走路を離陸して飛行に難儀していた飛行機がそれでも上昇して行ってついに暗雲・乱気流の層を抜け、明るい高空に脱するようなものである。他の学習対象でも似たような経験ができるのかも知れない)。
 この点、日本語は、ギリシア語やラテン語由来の単語内の個々の構成部分の意味を知っていなければ専門用語の意味把握が不可能な英語よりはるかに優れている。通常はあの外国生まれの実質的に移民である人たちの日本語の欠陥は露見しにくいが、慎みから口に出されてはいないだろうが、その日本語力の浅薄さについて意外な場面で周りの日本人たちから密かに興醒めされているのではないだろうか。ただし、英語と日本語はまったく系統の異なる言語同士であるため、これらの両方に熟達するためには長期間の学習・訓練が求められる。そのため、英語のネイティブスピーカーに対して、特に学習に負担の大きい日本語での若干の実力不足をあげつらうのは、少なくとも倫理的には望ましいことではないだろう。
 今日はあと2人合流してくるわ、とセシリアは言った。そのうちの1人は前に会った先生で、めでたく教授に昇進していた。花押について延々と説明をしてくれた、正直なところ傍迷惑な先生である。年度途中だったのだが、経歴と業績が過飽和状態になっていたらしく、前任の教授が以前から出身地に近い中都市での老親との同居介護のため申請していた西日本の大学の席が空いて転出した際にあっさりと正教授職昇任が認められた。
 では、もう一人は誰ずら?
 今日これからクルーザーを誰が操縦して千葉県の勝浦に行くのかについて、セシリアはまだ一言も話していなかったのだ。まさか、すでに婚約者がいて、私をからかって一同で辱めて、居たたまれなくさせて海に飛び込ませる目的でそのフィアンセを見せつけようと、隠し球のようにして、その人物についての説明をしていなかったのではあるまい。
 それがどのような人物であれ、命のかかっているクルージングのためには、誰か有能なクルーが来なければならなかった。私はいろいろ想像してみたが、見当が付かなかった。この点についてセシリアに直接糺そうとしたまさにその瞬間に、クルーザーに人が乗る気配がした。男の声がした。

第41章 タイマン、そして出港(前半) https://note.com/kayatan555/n/nbb7ee7c3d5bd に続く。(全175章まであります)。

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