負け犬の遠吠え

負け犬の遠吠えというタイトルの本を作家の酒井順子さんが書かれたのは15年くらい前だったか。

私は酒井順子さんと同じ歳で、35年前の短大時代、既に活躍されていた酒井順子さんは東京生まれの東京育ちで、さらに立教大学在学中で、私から見たら全てを持っている、超羨ましい存在だった。

地方から上京するという事は、地元が東京の人は親元であるとか、育った環境が大都会だったという東京の人にとっては当たりまえのことが、その環境を持たざる者にしかわからない、”田舎もん”という劣等感を刺激され何とも言えない緊張感を生んだものだ。

地方から上京すると、今までの自分とは違う自分になることもできて、要はステージを変えられて、私は花の東京で大いに解放感も味わった。観るもの聴くものあたらしく刺激的で、若かった私はどんどん色々なことを自ら体験し、吸収した。
親元にいない自由さもあり、まあ、その時に自由にし過ぎて、恥の多い人生を歩み始めたともいえるかもしれない。

芝居や映画、ライブハウス、田舎の生活になかったものを貪欲に観に行った。

本屋に入り浸って立ち読みをし、鳩よ!という雑誌を買うのが好きだった。

ダ・カーポとか。。そして彗星のように現れ既に雑誌オリーブでエッセイを書いていた酒井さんの名前をあちこちで見聞きし、多分何かを読んだと思う。何を読んだかも忘れてしまったけれど。
何も持っていない私には、学歴も名声も才能も家柄も、全てをもっている勝ち誇った人に見えた。(本当のところはよく知らないのに)


その彼女が、自虐的に独身で子供がいない自分を”負け犬”と定義して、でも幸せなんだというようなエッセイを書かれて、何やら賞を取られた。

未婚で子供がいないことが幸せなのか、また反対に結婚して子供がいれば幸せなのか
幸せの定義なんて、結局人それぞれ違うのだから、未婚で子供がいないことが不幸だと思われてしまう当時の風潮は、そういう境遇の人たちとって要らんお世話だったであろうし、結婚が勝ち組というのも幻想でしかなかったはずだ。

優しい夫もかわいい子供たちもいて、幸せの絶頂のような家庭を築き上げている私は”幸せ”には変わりないけれど、それでも、その時も、何か満足できないでいた。けれどそれに気が付くこともしないようにしていた。
もちろん、子育てで忙しくて、仕事もしていたし、幸か不幸か”負け犬”について熟考する暇すらなかったのだれど。


そう、私は忙しかったのだ。とても。。
だから彼女の書いたものも読まず、ほんとに遠吠えを聞くように、スルーした。心のどこかに、「皮肉だな」と思ったことだけ覚えていた。

彼女は当時も今も私の持っていないものを全て持っているように見えた。
そして、私も彼女が欲しかったかどうかは別として、彼女の持っていないものをもっている。

私たちの世代まで25歳までに結婚しないとクリスマスケーキと言われた。
24日までは売れるけど、25日を過ぎると売れ残りという意味だった。
2つくらい年下になると既にそれは大晦日と言われていた。31になると。。。という意味合いだった。

結果的には23歳くらいで結婚した人も多かったけれど、反対に30過ぎても結婚しない人も多かった。
私は27歳で出産したけれど、あとから同窓会なんかで聞けばまあ、決して早い方でも遅い方でもなかった。

世の中のお節介なうるさい外野を黙らせるのに、自らを”負け犬”と称して勝ちをとる=認めさせる。見事なエッセイだったのだろうな。
一度読んでみたいと今更ながら思う。

30代、40代は婦人公論をよく読んだ。そのころは、変な嫉妬も消えて、酒井さんのエッセイ、好きだったな。


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