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「母の香り」

香りは何よりもそのひとを表す。
そんなことを自然に信じるようになったのは、いつからだろうか。

香水をたくさん持ってるんだよね、と言うと、大抵のひとは、香水のなにが魅力的なの、とか香りものが好きなんだね、など、わたしのことを香りというもの自体にフェチ的な魅力を感じるタイプの人間だと認識する。

それは間違いではない、けれど、正しくもない。

ただ、昔から「自分の香り」を持つ母に憧れがあっただけだ。
母に限らず、香水に限らず香りまでがセットでそのひと、みたいなひとに憧れがある。香水をつけている、いないにかかわらず。そんな人たちは何年も会っていなくても、私のなかでいまも強く個性の輝きを放っている。私はといえば彼ら彼女らに感化されて香水を購入するものの、まだこれというものには出会えていない。


母は百合の香りのする香水を愛用していた。真夏以外のすべての季節で使われ(つまりほぼオールシーズン)、外出前の母の部屋からする香りがどのくらい強いかで、その日の気合いの入り方がわたしにまで伝染するような、そんな気がした。あまりにも登場頻度が高いので、母のタートルネックのセーターからは洗濯してもこの香水の匂いが消えなくなった。

首筋から咲く、白百合の花。

一吹きするとぱっと百合の花が開くような華やかな印象の、よくできた香水だった。母が学生のころに流行ったものらしく、そのころにはつけているひとが多かったと、昔に母から聞いたことがある。
その圧倒されるような清らかさ、そして完璧さは、むしろその香水が意思を持って現実世界の花ではないことを主張しているようにも思える。例えるなら、精巧で美しい、枯れることなく咲き続ける人工の百合。

香りを深く吸い込むと、はじめの女性的な印象とは少し違う、柔らかに白い花たちが包み込み、ゆったりとした安心感を感じる、白檀の匂いがおわりに百合と混ざり合う。

天国の花園のように。

しかし、そのあたたかさの表現までもが狙いすまされたように完璧で、わたしはこの香水を思い浮かべるとき、同時になぜか仏像の口もとーアルカイックスマイルが頭に過ぎる。この世のものでない微笑に、この香水はとてもよく似ている。

そんな香りと母の関係をはじめは理解できなかった。
わたしは母のことを好きではない。
粗雑で共感が苦手なところ、不安定な精神によるアルコール依存。そういった面が歳を重ねるごとに顕著になり、家族間の喧嘩が多くなった。

家はいつしか安心できない場所になり、その中心にアルコールと母があった。
しかし、どんなに母が変わり、家がおかしくなり、ついにアルコールが精神をはみ出て身体を蝕んでも、母が支度の最後に纏うのは変わらずこの香りで、そのことが切なかった。それでも、香りは母と溶け合って、母のことを魅力的に見せることに変わりはない。

母のなかの花が色褪せるように心身が枯れていくのに、香水だけは変わらない華やかさで咲き続ける。

いつも、それが苦しくて、それでも母のことが知りたかった。そうしてこっそり、その香りを私も身に纏うようになった。 

けれど、わたしにはどうしても似合わない。華やかすぎるし、優しすぎるのだ。
半ば意地になるようにして馴染まない母の香りを使い続けたある日、すとんと腑に落ちるように解った。


母は架空の、嘘の花園が一番似合うひとだから、この香りを纏うのか。穢れを知らない、あたたかい無垢な花のような人でもあるから。
一方で無意識のうちに嘘をつける人でもある。母はもう自分の嘘が嘘とは分からなくなってしまった。
私が好きではない母は嘘つきだけれど、同時に私が母を美しいと思うとき、それは優しさ、弱さに伴う純粋が今も母の中にあるからだ。

そして、百合の花言葉は純粋、純潔だという。

少女のまま母親になった彼女の、危うい純粋性を際立たせる香りだったのは必然だった。

嘘も清らかさも、多分どちらも母の一部で、全てをひとつの言葉で表すことなど出来るわけは無いのだと思う。だから、その香りはいつでも母のそばにいる。過度に主張せず、消えもせず、ただそこに美しくある百合の花のように。

香りはそういうことに気付かせてくれる。

人は香りを選ぶし、香りも人を選ぶ。 アナイスアナイスと母が混ざりあった匂いで抱きしめられた幼い記憶は、いつの日も幸せだった。

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