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熱愛映画、大嫌いな映画。

今回のマガジンのテーマは「私をつくった3本の映画」、「心に刺さりすぎて自分の一部になってしまった映画」なのですが。結局4本+二度と見たくない映画1本、になってしまいました。

「ルパン三世 カリオストロの城」

初めて映画館でみたのは「東映まんがまつり」の「長靴をはいた猫」で、作画監督に宮崎駿の名前がある。中学生のとき初めて子どもだけで映画館に行って見たのは「風の谷のナウシカ」。「となりのトトロ」も「天空の城ラピュタ」も大好きだけど、文句なく楽しいのはこれかな。

語り尽くされている名作ですが、昔から忘れられないのは、城に召使いとして潜入していた不二子ちゃんがクラリスの前で変装を解くシーンだ。アップにしていた髪をふわっとほどき、かっちりしたドレスを脱いで(歌舞伎の引き抜きみたいに一瞬で脱げる、どういう構造なんだあのドレス)迷彩スーツの女スパイスタイルになる。カッコいい。

クラリスは、城の屋根から転がり落ちながらルパンを支えたり、マシンガンに飛びついて銃口をそらしたりと、体を張って闘うピュアな少女でナウシカと共通点があるなと思う。一方、不二子ちゃんはギリギリのところでルパンを救うけど、あとは次元たちに任せ「ルパン、これは貸しにしとくわ~」といって自分だけ逃げてしまう。ルパンの看病とかは絶対しない。そのクールな関係性がすごく好き。銭形と不二子が共闘するシーンも大好き。

「サウンド・オブ・ミュージック」

これも有名すぎるけど、何度見ても幸福感で胸がしめつけられる。嵐の夜、子どもたちと主人公のマリアが雷を怖がって「きゃあっ!!」と叫びながら歌う「私のお気に入り」を聞くと、なんであんなにわくわくと切なさが入り交じった気持ちになるのかよくわからない。
長年の男友達T氏は、演劇も映画もロックもクラシックも、芸術全般に詳しい人だが、つきあいはじめのころ、この映画が大好きだと聞いて意外に思ったことがある。「私のお気に入り」で泣くことがあると私が言ったら、「俺は、子どもたちがカーテンで作った服着て自転車で走る『ドレミの歌』でも『もうすぐ17歳』でも『すべての山に登れ』でも、全部泣きます」と大いばりで語っていた。
マリアはどこまでも子どもの側に立って夢を見せてくれる存在ではあるが、よく考えると「子ども時代の終わり」を描いた作品でもあるような気がする。

「アマデウス」

サウンドトラックを買って繰り返し聴いた作品。
冒頭、「モーツァルト、許してくれ……」という老人のうめき声に続いて♪チャチャーンチャーンチャ♪チャチャーンチャーンチャーンチャ(格調のかけらもない、スミマセン)と切迫したシンコペーションで始まる「交響曲25番ト短調」1楽章がめちゃくちゃカッコいい。疾走する音楽とともに、雪の中を血まみれで運ばれていく老人。一瞬音楽がメジャー(長調)になった瞬間に、同じウィーンの街で行われているはなやかな舞踏会の映像がちらりと映る。
モーツァルトを殺したと語り、自殺をはかったこの老人、かつての宮廷音楽家サリエリの回想で話が進むのだが、当時15歳だった私は彼の屈折した感情はさほどわからなかった。なぜ神は、モーツァルトに才能を与え、自分には彼の音楽を理解するだけの才能しか与えてくれなかったのか、とサリエリは叫ぶ。物語は名曲に乗ってぐいぐいとクライマックスに向けて進み、うんこやおならやエッチな話が大好きな小学生みたいなモーツァルトも、謹厳で皮肉屋でお菓子に目がないサリエリも魅力的だ。
それと、昔から好きだったキャラクターがとぼけた王様のヨーゼフ2世。マリー・アントワネットのお兄さんで、わりとバランス感覚のある政治を行った王らしいが、本編のサリエリ曰く「まったく音楽を理解しておられなかった」。サリエリが「フィガロの結婚」の美しさに感激し、敗北感をかみしめているときに、絶妙のタイミングで王様があくびをする。これで「フィガロ」は打ち切りだとつぶやくサリエリの、自分をも嘲るような苦々しい「ニヤリ」が、今はちょっとわかる。
エンドロールに流れるピアノ協奏曲第20番の2楽章は、本当に美しい。悲しいことがあったとき、小さな子どもに「どうしたの?」といたわられてよけい悲しくなるような、胸に痛い美しさだと思う。

これを見た年、ピアノの発表会でモーツァルトのソナタを弾かせてもらったのだが、出だしからガツンとフォルテ(強く)で入る、「アマデウス」の冒頭を思わせるカッコいい曲(ピアノソナタ14番ハ短調の1楽章)だった。私は不真面目な生徒だったけど、この時ばかりは影響されまくっていたので頑張って練習した。最後のクライマックス部分の楽譜にはえんぴつで「殺しちゃった!!」とか書いてて、いとはずかし。

「ミツバチのささやき」

スクリーンいっぱいに広がる枯れ草色の大地と、少女アナの真っ黒な眼が忘れられない。子どもの眼から見た世界のお話。1985年、高1の冬に六本木のシネ・ヴィヴァンで観た。
時代はスペイン内戦直後の1940年。映画が製作された1973年はフランコによる独裁政権が続いていて、自由にものがいえない時代だったという。たぶんそのせいもあって、せりふも状況説明も最低限に切り詰められている。妹のアナとお姉ちゃんのイザベルを演じた少女たちは、本名もアナとイザベルだそうだ。

小さな町の公民館に「フランケンシュタイン」の映画がやってくる。昼間見た映画が気になって仕方ないアナは、寝る前、イザベルに「なぜフランケンシュタインは女の子を殺したの? そしてなぜフランケンシュタインも殺されたの?」と聞く。イザベルは「フランケンシュタインは死んでない。あれは精霊だから。“私はアナよ”と呼びかければ、いつでもお友達になれる」と教える。
ベッドの中でこそこそとささやく声。「ソイ アナ(私はアナです)」と「エスピリトゥ(精霊)」というあかるい母音の響きが耳に残っている。

あらためてDVDで見直してみたら、大人たちの動向が気になった。父はミツバチの研究に没頭し、母は返事の来るあてのない手紙を投函するために、たびたび自転車で平原を横切り、駅へと出かけていく。二人とも、娘たちを愛してはいるらしいがどこかうわの空だ。
お姉ちゃんのイサベルはたぶん、妹に話してやる作り話の世界を半分は自分でも信じて、半分は信じていない。その大人になりかけのゆらゆらした感じが、そこはかとなく残酷に思える。
アナは列車から飛び降りた脱走兵と出会い、そして森でフランケンシュタインに会う。「ソイ アナ」には、説明しようとすると消え失せてしまうような、とても大切な何かが込められていると思う。アナとイザベルの真っ白なねまきや、朝ご飯に飲むカフェオレボウルの手触りまでが映像から伝わってくる。最後のほうで、アナが「こっこっこっ」と水を飲むシーンが大好き。

番外 二度と見たくない大嫌いな映画
「コックと泥棒、その妻と愛人」

1989年製作、90年日本公開。ピーター・グリーナウェイ監督作品は映画通の間で評価が高く、「フィガロ」などの女性誌でも紹介されていたと思う。ただし「一級のアート作品だが見る人を選ぶ試金石」みたいな取り上げ方だった。グリーナウェイ作品は予告編などで見る限りきっと嫌いだと思いつつ、どうしても気になってしまって、一人で見に行った。で、ものすごく後悔した。

たとえば最初に出てくる会話。

泥棒:「ビアフラの子どもは、手足が細くて腹だけが異様に膨れてるんだ」
妻:「病気ね」

内戦の被害者で栄養失調の子どもの話をしながら、贅を尽くしたフレンチレストランで、豪勢なフルコースをこの上なく汚く食べ散らかす。こんな悪趣味ってあるだろうか。

残忍な「泥棒」アルバートはこのレストランのオーナーでもあり、食堂は真紅、厨房は緑、化粧室は白、野犬がうようよいる駐車場は冷たい青い光に照らされている。ゴルチエのドレスをまとった美しい「妻」ジョージーナは夫に愛想を尽かしているが、彼の暴力を恐れて逃げ出すことができない。妻はレストランの常連でいつも本を読んでいる学者と愛人関係になるが、二人の関係を知った泥棒は愛人を惨殺、妻はコックの協力を得て奇想天外な方法で泥棒に復讐する、という物語。

とにかく吐き気を催す暴力のオンパレードで、しかもその暴力が全部、本のページを口に詰め込むといった「食わせる」系なのだ。贅沢な料理が果てしなくまずそうに、だが鮮烈な映像美で描かれる。しかもパンフレットを見ると、監督は「なんの救いもない悪人を描きたかった」と語っていて……。

あんた、食べ物で遊ぶとバチが当たるよって言われませんでしたか!? 彼が鬼になったのには理由があった、的な描き方ならわかるけど、「なんの救いもない悪人」を描いてなんのいいことがあるんじゃー!! と、不快感と怒りで震えながら家に帰ったが、マイケル・ナイマンによる偽バロック音楽みたいなテーマ曲がしばらく耳について離れなかった。

いつまでも気になってしかたがない映画なので今回ちょっと調べてみたら、映画評論家の大場正明氏が、サッチャリズムを意識した作品だと語っていた。1980年代、サッチャー首相は規制緩和や国有企業の民営化を押し進め、英国経済を立て直したとされるが、一方で格差が拡大した。「泥棒」は手段を選ばず欲望を追求し続ける新自由主義の化身ともいえ、それが豪華レストランのオーナーなのだ。
ぐぬぬ。食品ロスの量が世界的にトップクラスという日本で、ぬくぬくと消費生活を送っている自分こそ無自覚な暴力であり、「救いのない悪人」かもしれない!? 少なくとも暴力から逃げられない妻や、泥棒を嫌いつつ奉仕するコックかもしれない。この映画が忘れられなかった理由のひとつは、つきつけられた刃物が鋭かったからなのだろう。

そんなこんなで、たしかに傑作ではあると思う。でも、グリーナウェイは映像美にとりつかれた変態さんだと思うし、やっぱり嫌いなので絶対二度は見ません。最近は、SDGsの仮面をかぶった泥棒みたいな、もっとたちの悪い怖いものが世の中を横行しているのかもしれない。

ああ、結局いちばん嫌いな映画の字数がいちばん多いや……。

振り返ってみて、「好き」も「嫌い」も自分の根本に関わっていて、しかもそれは変化していくということがよくわかった。これからもいろんな映画を見て、語り合って、いろいろ考えたいなあ。

ここまでおつきあいくださり、ありがとうございました。

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