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日帰り旅行で会いましょう

#深夜の真剣物書き120分一本勝負 にて。
未来がちょっと楽しみになる、そんなお話。
お題は『三半規管』『軽自動車』『櫻』。


「さくらの?」
 耳慣れない地名に、思わず聞き返した。午後八時五十三分。電話口の相手は、やけに上機嫌に頷いた。
『そう! 栃木県さくら市櫻野! さくら市の『さくら』は平仮名で、櫻野は旧漢字の櫻に野原の野』
「なんだそれ、ややこしいな。それで?」
『だぁから、さっきからずっと言ってんじゃん。行きたいから車出してよ』
「はぁ?」
 電話の相手は旧い友人だった。友人、と言っても、別に深い仲ではない。学生マンションで隣だった、三つ下の男である。共通の友人がいて、卒業を迎えた後も三人で何度か飲みに行った。その程度の仲である。
「なんで俺が。つか、その櫻野って場所、なんかあんのかよ? 名所かなんか?」
『いんや、全然』
「じゃあなんで」
『別に理由なんかいいでしょ、ねぇ、車出してよ。確か軽持ってるよね』
「持ってるけどよ。お前三半規管弱いんじゃなかった? 車じゃなくて電車で行きゃいいじゃん」
『それはそうなんだけどさ』
 電話口の向こうで言い淀む気配がした。うん?と続きを促すと、彼は如何にも言いにくそうに言葉を紡ぐ。
『ツカサがさ、面白い地名だから行ってみたいって。三人でドライブしたいって言うから』
「ああ」
 ツカサは学生マンション時代からの、彼と俺の共通の友人だった。昔から人見知りで、どこか危なっかしい不思議ちゃん。歳は彼と同じで、いつも彼の後ろに半ば隠れるように居たものだ。彼はそんなツカサを大いに甘やかしていたように思う。いや、甘やかしていた、というのは語弊があるかもしれない。二人はいつも一緒だったから、それが二人のあるべき姿だったのだろう。
『おれは免許も車も持ってないしさ』
 だから車出してよ。彼は一切悪びれる風もなく繰り返した。無駄な抵抗と知りつつも不満そうな声を出しつつ、少し離れた場所に置きっぱなしだったタブレットを引き寄せた。現在地から、櫻野。2時間くらいで行ける距離か。しばしの逡巡。
「……日帰りなら良いよ」
『まじ!? やったー!』
 ああ、つくづく俺は彼らに甘いのだ。車、出してくれるって! と話す彼の声が受話器越しに聞こえてきて、一人苦笑する。スケジュールを伝える声がどこか弾んだ。所有する軽自動車に自分以外が乗るのはいつぶりだろうか。掃除をしておかなければならないかもしれない。運転は俺になるのだから、前日は早めに寝ておかなければ。年甲斐もなく楽しみになっている。これでは遠足前の小学生と一緒だ。そうは思いながらも上がる口角を抑えられない。一人幸せを噛みしめた。彼らがいれば、この狭いワンルームも、上手くいかない仕事も、どうでも良いと思える。
「楽しみだなぁ」
 呟けば、二人分の笑い声と相槌が返ってきた。

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