マガジンのカバー画像

短編小説

58
運営しているクリエイター

2022年2月の記事一覧

品位なき生への、半分だけの復讐心。

 品位というものが感じられない世界で育った私には、品位というものがどういうのか、全く理解できなかった。捨てられないゴミの中で呼吸をし、洗われない風呂や衣類を着て過ごす。腹を満たすだけの食事をし、親との会話は罵声と叱責と暴力だけの一方的なもの。ある日この薄暗い部屋の中に大勢の大人が入ってきて、思わず顔をしかめてしまうくらいの良い匂いのする毛布にくるまれて明かりの中へと運び出されるまで、私はその「品位」という言葉とは全く無縁に、無縁ながらに、この世にかろうじて存在していた。 「

冬の自殺の肯定

「誰も何もできないからだよ」とその人は最後に言った。その日は雪が私達を凍りつかせるほど降っていて、昨日の見慣れた土色とは打って変わって真っ白になったグラウンドでは、放課後の雪合戦を楽しむ生徒達の声が聞こえてきていた。  その溌剌とした若々しい声は、淡々と振り続ける雪と空気の冷たさに濾されて、私にはとても白々しく聞こえた。それがなんの根拠もない被害妄想だとは分かっていた。でも、ここまで階段を何十段も駆け上がってきていて喉が痛いし、寒さで耳も鼻も痛いし、目の前の友人は屋上から飛び

虫のような女との結婚の話

「だからね、結婚なんて誰にだってできるワケよ」  綺麗な赤いネイル。虫の四肢のように細い人差し指と親指でつままれたスプーンをガチリとカップの縁にぶつけて、公子さんは最後の紅茶を一気に飲み干した。  よくあるチェーン店の喫茶店だった。平日だからか、他に客は少ない。夕方で窓から差し込む光の角度が変わり、仮面のように、彼女の顔には邪悪な陰影が貼り付けられている。私は思わずしかめた顔を気付かれないように、視線を暮れなずむ外に向けて、「そうですね……」と意味深なため息をついてみせた。

人身事故と非常時の怒り

 人身事故で停車した満員電車の中で聞こえてきたのは多くのため息と舌打ちだった。慌てて電話を取り出して遅刻の連絡を始める会社員。その隣の背の高い女性が、少し顔を上げてまた何事もなかったかのようにスマホに目を移す。熱気と湿気が身じろぎすらできない空間の中で渦巻いていた。冬の外気は寒く、いつの間にか電車の窓ガラスは曇っていた。多分、みんなのため息がいっそう車内を暖めたのだろうと思う。  その靄がかった窓ガラスには、こんなにも混雑した車内の人々の様々な顔が映っている。しかしみな、一様